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Q.相談しても辛くなくなるわけじゃない。でも相談できないときは辛くて、こんなことも自分で耐えられないんだって思う
この記事の担当 やみーペン

Q.中1のころから相談してる担任の先生。とても優しい先生です。その優しさに甘えて、中2になって担任じゃなくなっても相談し続ける日々。相談しても、辛くなくなるわけじゃない。でも、相談できないときは辛くて、こんなことも自分で耐えられないんだって思う

A.相談するは自分の中のモヤモヤを吐き出す作業ってやみーペンは思ってて、簡単に見えやすいけどめちゃくちゃ難しい!
つらい時の気持ちを誰かに分かってもらえるように伝えたり、話して受け止めて貰えたら、つらい分だけ頼りたい気持ちいっぱい出てくるし……。
相手のこと考えたりすると余計難しくなるし、でも考えるのやめれる訳じゃないし…。
普段から耐えてる中でこれ以上耐えるのはもう無理ー!ってなるのも当たり前だとやみーペンは思う!!

update 2024/3/21
Q.もう自分を消すしか無いという思いが子供の声を聞くと溢れ出してしまいます。
この記事の担当 生きかたカエル

Q.もう自分を消すしか無いという思いが子供の声を聞くと溢れ出してしまいます。

A.子どもの声を聞いて溢れるのは、きっと過去のトラウマが悪さをしているのでしょう。

過去のつらい記憶があなたの中の情動脳(自分のコントロールできない原始的な脳機能です)を支配して、「もう、消えるしかないよ」とささやいているように感じました。ただ、それは本当に消してしまう方がいいというより、苦しみから逃れるには自分を消すしかないという切羽詰まった感情の生存戦略だろうと思います。
でも、こうして何とかしたいと質問をしているということは、あなたの理性脳がバランスをとろうとしている証だとカエルは思いました。

過去の記憶に支配された情動脳と仲良くするには、マインドフルネスとかタッピング、ヨガ、動物を戯れるなど、日常的にできることもありますので、よかったら調べて試してみてください。

update 2024/3/19
Q.ネット、特にSNSが怖いです。どうしたらネットの情報とうまくつきあえますか。
この記事の担当 生きかたカエル

Q.ネットが怖いです。特にsnsが怖いです。悪口や差別発言、そして炎上など、あと、ちょっと違う意見を多数が寄って叩く、それらを見たくなくて、snsにあまり、近づかないようにしています。
どうしたらネットの情報にうまくつきあえますか。

A.怖いものには近づかない(みない)とい根本的な対応法はありますが、現実的ではないのなら、別の方法を考えましょう。
カエルとしては、真に受ける情報は直接見たり聞いたりしたものであって、「ネットの情報」はどちらかというとドラマや映画など、サンプル品のようなものだと思っています。

テレビや映画や漫画を見るような距離感を、ネット情報に適用するのがちょうどいいのかなとカエルは思っています。

update 2024/3/12
Q.リスカがやめられません。どうしたらいいですか?
この記事の担当 やみーペン

Q.リスカがやめられません。どうしたらいいですか?

A.リスカって辛い気持ちを吐き出すための行動なんだろうなぁとやみーペンは思ってるんだよね。だからやめたいと思ってる時ほど辛いんだと思うから、どう付き合うかを考えれる場所があるといいなあって思った。
生きづLABOの「SOSの出し方ガイド」では、リスカは心のSOSかも、って話をしているよ。
またいつでも質問してね~。

update 2024/3/6
Q.察する自分に苦しんでいます
この記事の担当 やみーペン

Q.自分の「察する」ところ、「無駄にわかってしまうこと」。それに苦しむ私。自分の現状を、「私は抑うつ状態である」「私は気分変調症の可能性がある」と表現できる人が、苦しいんでいるわけがない、…そう思われると思う。私より辛い人がいるのはわかってる、自分のことそんなにわかってるなら重症じゃない、そんなのわかってるけど。ただ児童精神科医学に興味があっただけ。苦しいし、死にたい。自分の現状がわかってしまうこと、他の人の感情が自分に入り込んでくること。わかりたくてわかってるわけじゃないのに。

A.分かるとか感じてしまうことって難しいよねぇ。やみーペンも母ぺんぎんと暮らしてた時の名残で色々分からなきゃ!と強迫的になってる部分があるから勝手に分かるような気がしちゃってるよ。
でも辛いって、誰かや何かと比べられる物じゃないから、自分が辛いなら辛いでいいと思うんだ。比べるほど、さらに苦しくなっちゃわない?

辛い気持ちは1人じゃどうにも出来ないときもあるし、誰かに手伝ってもらいたいけど、自分を助けられるのは自分だけなのかも…ってやみーペンは最近思ったりもする。

誰かを助けることはできないけど、一緒に自分を助ける方法を考える仲間になら、やみーペンもなれると思うんだ。

update 2024/3/6
Q.大きなストレスがあって心が緊急事態のとき、どう過ごすのがいいと思いますか?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.大きなストレスがあって心が緊急事態のとき、どう過ごすのがいいと思いますか?

A.人それぞれなので、参考になるかはわかりませんが

(1)ストレスを何かの刺激で一時的にかき消す~漫画を読む、動画を見る、やむを得ない場合は身体的に自分を痛めつけるなど
(2)自分がリラックスできるもの、安心できるものになるべく触れる~好きな食べ物、好きな場所、好きな言葉、誰かにもらった嬉しい言葉など(元気なときにそういう好きアイテムをストックしておくのがおすすめ)
(3)感情やもやもやのエネルギーを発散する~カラオケ、散歩、ノートに気持ちを書くなど
(4)信頼できる人と話す(吐き出せたらベストだけど、ただ何気ない会話するだけでも一定程度落ち着く気がする) ※ただ、そもそもそんな人がいたら苦労してないというのはある…

といったいくつかのアプローチの種類はありそうです。

緊急事態はいつやってくるか分からないものなので(来ないに越したことはないですが)、備えは十分にしておいた方がいいなと、書いていて改めて思いました。

ウ・サギもそこまでストレス対処が上手ではないので、本当はもっといろんな人に聞いてみたいところです。

update 2024/2/22
「社会モデル」と「不作為責任」について③ 「不作為責任」を考える
この記事の担当 生きかたカエル

~これまでのお話~
①社会モデルとは?
②本当はつながっている

ちょっとカエルが注目していることに、精神医療国家賠償請求訴訟の活動があります。

精神障がいのある方たちが治療の必要がないのに、本人の意思ではなく、地域に受け入れ先がないなどの理由で長期入院を余儀なくされた方たちに対して、国が必要なことをせずに放置したことの責任を訴訟を通じて、問うているものです。

精神医療国家賠償請求訴訟研究会 | 鳥は空に魚は水に人は社会に (seishinkokubai.net)

この活動のことを聞いた時にカエルがすぐに考えたのが「家庭内の暴力被害も同じ状況だなぁ」と言うことです。

これだけ、家族や家庭というコミュニティの中で起こっている人権侵害があるにもかかわらず、それが放置され、子どもや障がい者、女性など、弱い立場の人たちが暴力被害にあい続け、その結果、長い期間その後遺症にも苦しみ続けるのに、それに対する治療法や支援策が本当に乏しいし、自己負担だったりするのが本当におかしいと思います。

これは「不作為責任」と呼ばれるものです。

このサイトでは不作為責任は以下のように説明されています。

不作為とは、あえて積極的な行為をしないことです。そのままでは不利益をもたらす事を知りながら、それを放置していた責任を不作為責任といいます。

国家賠償という言葉から、国が悪い!という発想になりがちですが、カエルは不作為責任は誰が悪いか、誰を責めるかと言うことではなく、一人ひとりが「あえて積極的な行為を少しだけやる」ことが大切だと思っています。

それ以上にカエルが大切だと思うのが、何もしないことではなくその前提となる「そのままでは不利益をもたらす事を知りながら」という点です。

精神科病院の社会的入院に関しても、そして、家庭内で起こっている暴力に関しても、「そのままでは不利益をもたらす事」があまりにも知られていないことが問題なのだと思うのです。

だからこそ、生きづLABOや連携サイトの死にトリのような情報発信はとても大切だと思っているのでした。

不作為によって、権利侵害を受けた人たちが率直に経験を語り、考えを発信し、問いかけていくことはとても貴重な機会です。

誰もが自分が生きているこの今の社会とのつながりが広がり、そして、自分たちがまだまだやれることやるべきことについて考えることがとても大切です。

現状は確実に「このままでは不利益をもたらす事」があります。

今後も、多くの人たちとそれらをより深く知り、受け止める機会を作りたいと思っています。

update 2024/2/8
「社会モデル」と「不作為責任」について② 本当はつながっている 
この記事の担当 生きかたカエル

前回は、「生きづらさというのは、個人の問題じゃなく、社会のあり方の問題だよね」という「社会モデル」の考え方を説明しました。

しかし、それが社会の中ではスタンダードとは言えず、どちらかというと自己責任、個人責任が優先されてしまうところがあるということ、その要因としては、全体的に人間社会の中に余裕がないことが大きいのではないか、という話もしました。

今回は、その余裕のなさの背景を考えてみます。

今の人間社会では、何か現実的ではない理想や望みを、私たちが追いかけ続けようとしているのかもしれないと思うこともあります。

迷えるおたまじゃくしたちと関わっていても、お金がないと生きていけないとか、働かないとだめだとか、〇〇できないと、〇〇しないと…という焦りや強迫性を感じます。

でも、ふとカエルは思うのです。
「そんなに焦る必要があるのかな?」と。

必要だとか、ほしいという希望ではなく、「〇〇しなければ」「〇〇するしかない」が動機の中心になることは、とにかく我慢と忍耐でお金のために働く人を増やすためには、役立っているのかもしれません。でも、人を資本と考えた時に、人を育てたり、人の生活を豊かにしたり、人を大切にするという発想は置き去りになっていると思うのです。

その置き去りは、じわじわと知らないうちに私たちの生活の中から、大切なことについて考える機会を奪い、自分が知らないところで自分とつながって起きているはずのことを「他人事」にしてしまうと感じています。

今必要なのは、今この社会(地球規模でも)で起こっていることはすべてつながっていて、そのつながりについて私たち一人ひとりが自分なりに理解をしていくことだろうと思っています。(カエルの世界と人間の世界もつながっています!)

<続く> → ③「不作為責任」を考える

update 2024/2/5
「社会モデル」と「不作為責任」について① 社会モデルとは?
この記事の担当 生きかたカエル

こんにちは、生きかたカエルです。

最近、社会について語る記事をせっせと作成し、ブログの更新を頑張っているところです。今回は「『社会モデル』と『不作為責任』について」を、全3回で連載していこうと思います。
(第1回は「社会モデル」の話になるので、「不作為責任」が気になる方はひとまず検索してみてください笑)

社会モデルとは、主に障がい福祉の分野で使われる用語で「生きづらさ」は何なのか、どこからくるのか理解するための言葉です。

障がいを持つ人が生きづらいのはその能力の問題が原因なのだ(=「個人モデル・医学モデル」つまり、個人の責任)に対して、障がいがあるというだけで、持っている力を発揮できないのは、サポートが行き届いていなかったり、発揮するような機会がこの社会になかったりするから生きづらいのだという考え方のことを「社会モデル」というのです。

つまり、生きづらさというのは、個人の問題じゃなく、社会のあり方の問題だよね、と言うこと。

カエルは何の疑いもなく、その通りだと思っているのですが、実際の今の社会はそうじゃないことだらけで嫌になってしまいます。

一方では、障がい福祉分野の人材育成の現場では「社会モデルがスタンダードです」と伝え続け、それを共有する仲間たちが、現場でも頑張っていますし、国が主催する研修や専門職養成の場でも社会モデルは当然の考えとして出てきます。

でもやっぱり、社会の中ではそれはスタンダードとは言えず、どちらかというと自己責任、個人責任が優先されてしまうところがあります。

全体的に人間社会の中に余裕がないことが大きな要因の一つかなぁという気もしています。

<続く> → ②本当はつながっている

update 2024/2/1
家族という特殊チームを解体しよう④ まとめ
この記事の担当 生きかたカエル

~これまでのお話~
①暮らす自由が守られていない
②家から出る応援をする
③家族から抜ける手続き

  • 日本は家族が強制的にチームを組まされてしまう制度になっている

  • 家族という特殊チームでは、お金や力を持つチームメンバーがチーム全体の生き方や決定を握り、民主主義や法治国家の原則から外れてしまうことがしばしば起こる(日本全体のチーム理論の象徴なのかもしれません)

  • 民主主義と法治国家の原則から外れたとき、弱い者が抑圧され、権利侵害に陥りやすい(当たり前に起こる)

  • それなのに、特殊チームを抜けることは難しい。まずそもそも、抜けると生きていけない実態があることもある。周囲も抜けるべきではないと思っているし、抜けたいと思うことがおかしいとされていたりするので、抜けようと「思う」ことも難しい。

  • 実際に特殊チームから抜けるとなると、戻されないような工夫や段取りが必要

  • 工夫や段取りとしては、まず協力してくれるサポーターとつながること、制度、関係機関、交渉などいろいろな知識と技術が必要だから。

  • そのうえで、役所、18歳未満の場合は児童相談所、警察、弁護士を必要に応じて活用する

  • 逃げる際には「明確な意思表示」が必要で、とにかく「イヤだ」と思ってもいいし、言ってもいい。特殊チームを抜けたいと思うことも、抜けることも悪いことじゃない。それは自然な願いだし、個人の自由だから。

  • チームから離脱し、フリーになるためには、役所の手続きなどのために本人確認できるものを確保する、家族の名前を生年月日を覚えておく、扶養に入っていたら保険証を持ってくるか、持っていなくてもコピーを用意しておくと便利(健康保険の会社に電話できるように)


最後に改めてお伝えしたいのは、特殊チームから抜けるためにこんなにも苦労するのはそもそもおかしいということです。

だから、本当は何も持っていなくても、どんなに説明がうまくできなくても、そんなことはどうでもいいのです。

守られるべき権利が絶対で、本人を証明するものがなくても、必要な物を持ってきていなくても、何もわからなくても、わがままだという人がいても、働くことができなくても、お金を持っていなくても、嫌なチームにいる必要はないし、抜けられるのです。

生活費も何とかなります。未成年でも単身で保護は受けられますし、今は事情を話せば家族への扶養照会も配慮してもらえます。

これからは、誰もがチームに縛られることなく、家族という特殊な関係に関わらずチームが作れたり、解体できたりするといいし、いくつものチームに入れることがいいのではないかと思っています。

そう考えると、カエルが出会ったおたまじゃくしたちはみんな、家族じゃないけれど、緩やかなチームである感じがします。

必要な時に声をかけあって、できることはお互いにやるし、何かの目的があればチーム編成をして、ミッション達成のために動くし、でも、必要なければチームでは動かない。

そんな多様なチームをたくさん持てる社会になるといいなぁとカエルは思っています。

update 2024/1/17