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「みんなで資源開発ラボ」は、生きづらさを抱えた人のリアルな声をもとに、生きやすい社会になるために必要な資源を提案、創造していくコンテンツです。

第1回「サバイバー人権宣言」

第1回では「サバイバー人権宣言」をつくります。
皆さんの抱える生きづらさを言葉にして、社会への訴えとして、人権宣言の形でまとめたいと思っています。原案は作成しましたので、それを読んだ皆さんの声を頂いて、追加や修正を加えてから完成とする予定です。
たくさんのアイデア、意見、感想をお待ちしております。

サバイバー人権宣言

サバイバーとは

サバイバーとは、家庭環境、生育歴、国籍やセクシュアリティ、障がいなどにより、本来なら当たり前にあるはずの「安心・安全」を得られないまま、大人になった(これまで生きてきた)人のことです。

サバイバーの人生の中心は、その名の通り「生き延びる」ところにあります。周囲からの暴力や人格否定、社会の常識、障がいを個人の努力でどうにかしろという風潮・・・それらに押しつぶされた私たちの人生には、自由な選択肢というものがありませんでした。

何をしたいかではなく、何をしたら少しでも安全を守れるのか。
自分らしさではなく、どうしたら少しでも普通になれるのか。
何の手助けが必要なのかではなく、手助けのない中でどう我慢するのか。

それが私たちにとっての当たり前でした。「おかしい」とは思いませんでした。

でもダメージは確実に私たちを蝕んで、やがて私たちは、自分の感情や行動をコントロールするのが難しくなっていきました。自分を傷つけるのがやめられない、記憶が飛んで何かをしてしまう、死にたい気持ちに襲われる、コミュニケーションが上手くいかない、学校や仕事に行けなくなる、何をしても続かない・・・。そしてそれがなぜなのかも分からず、自分を否定してきました。

私たちには「安心・安全」という感覚がよく分かりません。
だからそのままの自分で大丈夫なところでも無理をして、心身を壊してしまいます。信頼できる人のことを信じられず、試したり、怖くなって逃げたりしてしまいます。自分を大切にする気持ちを持ち続けることが難しく、助けてほしい気持ちと、諦めてすべてを終わりにしたい気持ちでいつも揺れ動きます。
生き延びるだけで精一杯だった苦しい生活の中では、「自分が悪いんだ」または「○○が悪いんだ」と思うことでしか心を保てなかったため、私たちはバランスのいい考え方をするのが苦手です。
とにかくいつも今をしのぐことで手一杯で、長期的な視野をもつことも難しくなっています。つらい時に意識をなるべく飛ばそうとしてきたことで、記憶のつながりも弱くなっています。

回復への道のり

果たして、そういった私たちの生きづらさは、本当に私たちが至らないからなのでしょうか。
「みんな頑張っているのだから、生きるのがつらいのはみんな一緒だから」と片づけられていいものなのでしょうか。

常に私たちは「普通にならなければ」と社会のこうあるべき像に悩まされ葛藤し、うまく生きれない自分を自分で責め続けながら、周囲にも責められながら、時に自分を傷つけることでなんとか生き延びてきました。私たちは私たちなりに、人並み以上の困難の中、人並み以上の努力をしてきたつもりです。
それでも困窮や就労など社会参画の難しさは変わらず、うまく支援の対象に当てはまることもできず、もしくは支援が入ったとしても変わらずに、負の循環は続いていきました。
社会は厳しい。走り続けてももがき続けても。仮に手を差し伸べられたとしても、「安心・安全」を分からない私たちはそれを壊してしまう。期待してしまうほどに失望も深くなり、さらに傷ついていく。だから結局、自分一人で頑張るしかなかったのです。

それでもまだ、私たちは甘えているのでしょうか。もっと努力すれば、前向きになれば、負の循環を断ち切れたのでしょうか。

そんな私たちの回復の始まりは、支援ではなかったような気がします。もしくは、形は支援だとしても、本質は少し違うところにあったと考えています。

きっかけは人との出会いで、小さな関わりの積み重ねでした。

自分をただ、自分として見てもらえた経験。普通はどうとか、自分の考えや理想を押し付けるのではなく、感じていることに耳を傾けてもらえた関わり。
部分的にでも分かり合えた人の存在。お世話になるのではなく、自分も対等に役に立てた経験。
私たちの生きてきた世界を想像してもらえたこと。「それは周りがおかしいよ」「あなたのせいじゃないと思うけど」「そんなに大変だったなら、病んでも当然じゃない?」と素直な気持ちとして、言ってもらえた積み重ね。
もちろん、社会福祉によって困窮を抜けられたことや、相談で話を聞いてもらったこと、医療も支えになりました。でもそれだけでは足りなかった気がするのです。

私たちの負の循環は、上手くいかないのを「自分のせいだ」と考え、自己否定と不安の中でさらに自分を追い込んで、心身や環境を壊してしまうことでした。
回復の兆しは、それが少しずつ変わり始めたところだったと思います。
最初は、「自分だけのせいではないのかも」「じゃあ誰のせいなんだ?」と混乱するか、自分でもよく分からない怒りや悲しみが湧いてくるくらいでした。それから徐々に、ずっと押し殺していた「あれがつらかった」「悔しい」「どうして自分がこんな目に遭わないといけなかったんだ」といった負の感情が出てきました。その段階ではむしろ、以前よりも苦しみが増した側面さえありました。
本格的に私たちの世界が変わったのは、その段階まできた上で、「私たちの困難は自分個人の問題ではなく、社会の問題である」という考えを知った時だったと思います。

苦しいのは、社会不適合者だからとか弱いからではなく、それだけ心身にダメージを受けてきたから。「なぜ自分はこんなにダメなんだ」は、「全部お前のせいだ」と周囲や社会に思いこまされている。

私たちは問題を「抱えた」人間で、支援を「してもらう」のではない。社会の問題を「抱えさせられた」「背負わされた」人間で、支援を受けることは「当然の権利を取り戻す」ことなのだ、と。

社会へのメッセージ

でもまだ私たちは「安心・安全」を自分のものにはしていませんし、社会が自分を守ってくれるとも思っていません。

子どもの権利条約もあります。生活保護制度もあります。
しかしそれらはまだまだ一般市民、とくに学ぶ機会の奪われている貧困の最中にある人には、きちんと存在が届いていません。ダイバーシティ、包括的社会、多様な生き方の尊重などと叫ばれていますが、サバイバーの現実は、それ以前の世界にあります。自分の人生を生きていくことや、自分に権利があるということを、もし頭で分かっていたとしても、心では分からないのが私たちです。自己責任論、能力主義、学歴至上主義、本当の弱者には行き届かない制度…それが私たちの現実でした。

だから今私たちは、この『サバイバー人権宣言』において自らのリアルを発信し、自らの表現で社会づくりを語ります。

すべての人に、安心・安全な暮らしを。どんな年齢でもお金がなくても、居場所のない家、権利侵害のある家からは出られるように。心身を壊した時、安心して休めるような、お金や衣食住の保障を。
すべての人に、選択の自由を。家の経済力に関係なく、教育の機会が保障されるように。職業選択や結婚の自由が、マイノリティにも等しく保障されるように、差別や偏見のない世界を。社会の問題に「自分は困っていないから」と無関心である人がいないように、主体性を育む教育を。
閉鎖的な家庭で子どもの人権が奪われることのないように、孤立の中で親が加害者になってしまわないように、子育てを社会全員の仕事として担っていく文化と仕組みを。

私たちはこの社会で「生き延びる」しかなかったサバイバーとして、「自分を生きる」ことのできる自由な社会を切に願っています。
私たちは社会の問題を背負わされたものであり、私たちの人権を取り戻すことが公正な社会づくりであることを、今ここに宣言します。