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タグ哲学
Q.とっくに成人していますが「自分は大人だ」という実感が持てません。
この記事の担当 生きかたカエル

Q.とっくに成人していますが「自分は大人だ」という実感が持てません。子供のまま時が止まっているような感じです。一生このままなのでしょうか。何だか怖いです。

A.事実として「成人である」ということと、「自分が大人である」という自認は別問題だとカエルは思うので、食い違っていても問題はなく、あなたの感覚は自然なものではないかと思われます。
実際は私は私だというだけで、自分を何者だと思うかは流動的であると思っています。だから、怖いことではないと思うわけです。
ただ、怖いと思う気持ちがあなたにはあるのでしょうから、それは別の何かに対して恐怖を抱いているように思っていますが、それは何でしょうね。

update 2024/11/1
Q.なんで嘘をついたらダメなんですか?
この記事の担当 生きかたカエル

Q.なんで嘘をついたらダメなんですか?

A.とても、よい質問だと思いました。
嘘をついてはいけないことなんて、ありません。
「嘘をついてはいけない」というフレーズは、支配したい者が支配したい相手にかける洗脳の言葉だとカエルは思っています。
大人から子どもへ、先生から生徒へ、上司から部下へ…嘘をつくなと言うことはよくありますが、その逆で言うことはほぼないと思います。
つまり、「嘘をついたらダメ」というのは相手をコントロールするための抑圧の手段なのです。だから、嘘をつくかつかないかは本当はどうでもよいことだとカエルは思っています。そもそも、忠実に事実だけを語る人はいないので、誰もがいつも嘘つきであり、本当のことを言っているとも言えます。
また、いわゆる嘘として、わかっているけれど本当のことを言わない、あるいはわざと別のことを言うことはありますが、それでも「そう言いたかった、そう言わざるを得なかった事情」というものが含まれる、大切な自己表現なのです。
それを、支配したい側が自分の都合で「嘘」というレッテルを貼りいかにも正当な行為のようにして、弱い者を操作しようとすることがあまりにも多いのでカエルは「嘘をついたらダメだ」キャンペーンには賛同しかねます。

ただ、カエルも誠実に他者と付き合いたいという希望はあるので、嘘によって混乱したり、困ることはあります。そんな時は「嘘をついてはダメだ」ということではなく、「あなたは今そう伝えたかったのですね。でも、私には別のように思えます。本当のことを教えてもらいたい」とお願いすることはあるかと思います。ただし、お願いしたとしても、本当のことを言ってもらえるかは相手次第のことです。それでも、事実ではないことを言われたとしたら、関係性がまだ本音を言い合えるところに至らないのだろうと理解します。

したがって、「嘘をつくかどうかは自由」であり「嘘をついてはダメ」という台詞を言う人には気を付けた方がいいでしょう。というのがカエルの結論です。

update 2024/11/1
Q.その人らしさの根拠とは何でしょうか。
この記事の担当 生きかたカエル

Q.その人らしさの根拠とは何でしょうか。
私は何をもって、自分が自分であることを確かめればよいのでしょうか。

A.とても哲学的だとカエルは感じました。
カエルも哲学が好きですが、もっと哲学に詳しい仲間にアドバイスをもらいました。そのまま紹介します。

(※生きづLABOの質問BOXでは、質問について、サイトには公開されない補足の内容を書くことができます。補足の内容を汲んでの回答になりますので、質問の本文のみ見ている人には若干話が見えない部分もあるかと思いますが、ご容赦ください)

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「普通の人」とは異なる問いに悩んでいる疎外感と、そのことについての少しばかりの誇らしさを感じました。例示や不合理な帰結の導出など、哲学的な議論の仕方に慣れておられるようにも見えましたので、なぜ生きづLABOに尋ねたのか、何を期待しているのか聞いてみたいです。

これらの問いは「生きづらさ」の問題として見るか、哲学的な問いとして追究するかでアプローチが変わると思います。生きづらさの問題として受け止めるのなら、自分という存在の不確かさがどうして「普通の人」よりも切迫しているのか、その背景に何があるのか、どうしたら楽になるのかという観点から答えますが、そういう答えでこの方は満足するのでしょうか。「根拠」や「規定」という言葉から、むしろこの方が哲学の問いとして概念的に突き詰めたいのではないかと思いました。哲学の問いとして考えるのなら、おそらく誰もが納得できる絶対的な答えはありませんので、自分で言葉を鍛えながら探究するほかないと思います。論証や議論がしたいのならば、ほかに相応しい場所はありますので、そちらでやっていただければよいと思います。(永井均や中島義道の本を読んだのでしょうか?もしまだ読んでないのなら、面白く読めるかもしれません。)

あるいは二つの側面を切り離さずに、実存的な問いとして引き受ける道もあると思います。その場合には、他者の感じ方や考え方に触れて視野を広げたり、全く別の問いや課題に取り組んでみたり、幅広い人生経験が役に立ちます。抽象的な問題を考えるよりも、自分や身近な人の具体的な困りごとに寄り添うような経験を積むことです。いずれにしても誰かに答えを「教えて」もらうような問いではないと少なくとも私は思います。

個人の意見としてですが、私は自分自身(身体や過去の自分)との繋がりや、外界(社会やその外側の宇宙)との繋がりを感じられるとき、自分らしさや、自分が自分であると思えます。一言でいえば、「疎外された自分の一体性の回復」です。よって、現時点の自分の構成要素を分析するというやり方では「自分らしさ」に到達できないのではないかと考えています。もしこのような見方が正しければ、感じ方の異なる「普通の人」との共通の地平を探ることが一つの手掛かりになるかもしれません。また、補足の内容が思弁に偏っているように見えましたので、身体性を取り戻すことも効果的かもしれません。例えば、身体を大事にする、身体にとって快適な状態を作る(お風呂などで温める、柔軟体操や軽い運動をする、リラックスする)のはどうでしょうか。また、存在感や自己感覚の希薄さは、幼少期の深い傷つきやトラウマの経験と関わっている可能性もあります。
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update 2024/11/8