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Q.この社会の前提って理不尽じゃないですか?
この記事の担当 生きかたカエル

Q.この社会の前提って理不尽じゃないですか?

A.なるほど、確かに理不尽だと思います。ただ、カエルのニュアンスとしては今の日本社会においては、社会的正義が機能不全を起こしていると考えています。
つまり、社会の前提が理不尽というよりも、人間が野生の動物界の前提(弱肉強食であり、弱い者は淘汰されていく)ではなく、お互いに権利というものを認め、自由と平等を大事にしようと決めたのにもかかわらず、そのための前提が不十分なのだろうと思っています。
いろいろな事情がある人たちがいて、お互いに事情を理解しあうことは実はとても難しく、「差別はいけない」というようなキャンペーン的なやり方ではお互いに理解しあうことはできないとカエルは考えています。じゃあ、何が必要かというと…とても地味ですがいろいろな事情について、お互いの事情について出し合い、話し合い、歩み寄るプロセスしかないのかなと思っています。ただ、そうした地道な歩み寄りは力の強いものが自分の持っている力をわきまえて、聞く耳を持つ必要があります。なぜなら、力関係があると、弱い側の声や事情はないものになることが多いからです。そして、理不尽色が強くなっていきます。
だから、理不尽のリアルが過不足なく正しく理解される機会がとても大切だとカエルは考えます。みんなで事例を出し合えたらと思います。

update 2025/3/19
Q.子供の頃に戻りたい気持ちは一体どんなところから来ている?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.子供の頃に戻りたいなぁと思う気持ちが、最近大きくなっています。こういう気持ちって、一体どんなところから来ているのでしょうか。

A.ウ・サギも最近その気持ちが大きくなってきているので、仲間が見つかってちょっと嬉しくなっています。
ウ・サギの場合はですが、自分が子どもの頃と比べて(気持ちが)不自由になってしまった自分、そしてそれが完全には戻ることのないことに、気づいてしまったからなのかな…と感じています。つまり、今の自分の未練や望みや痛みと向き合える力が出てきたときに、子どもの頃に戻りたくなるのではないか?というのがウ・サギの説です。だからそれは主観としては良い気分じゃなくても、本質的には自分という存在が回復してきた証なのだと捉えています。
とはいえあくまでこれはウ・サギ説で、まだまだ不完全な仮説かと思うので、他の人の考察も聞いてみたいです。

update 2025/3/2
Q.授業中寝ちゃいけないというけど、学ぶ権利をどう使うかは自由だから、邪魔しなければ何をしても良いと私は思う
この記事の担当 生きかたカエル

Q.授業中寝ちゃいけないとかいわれるけれど、学ぶ権利をどう使うかは子どもの自由だから、周りの学びたい子供たちの邪魔をしなければ何をしていても良い。それが私の意見なんですけど、どう思いますか。

A.その通りだと思います。授業中に寝ちゃいけないということもカエルとしては必ずしもそうではないと思えます。どうしても寝ちゃうときや、寝なければならないときもあると思いし、寝るか授業を受けるかは周囲の権利を著しく害さない限り、選択してもよいと思います。
ただ、授業をやる教員の立場としては、寝ている人を見ながら授業をするのはなかなかしんどいことではあるので、授業を受けないのならどこかに行って寝てほしいという気持ちはあります。(カエルも経験があるので、ちょっとそんな事情も理解してもらえるとありがたいです)

update 2025/3/1
Q.先生が「これを見て、君たちにこういう思いを持ってほしい」と言うけど、何を学ぶかは私たちの自由じゃないの?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.先生が、「これから動画を見せるけど、君たちにこういう思いを持ってほしいんだ」とか言います。でも私たちがそれを見て何を感じて何を学ぶか、学ぶか学ばないかって私たちの自由じゃないんですか。

A.ウ・サギも、120%それに同意です。今首がもげるほど頷いています。
何を感じ学ぶかは、その人の自由だし、押しつけられた学びは本当の意味で学びではなく、調教や洗脳に近いものだと思っています。
ちなみに、ウ・サギはおおむね学校というものは好きじゃないですが、「こういうのは正しくないな」「ちょっと違うな」という例をいっぱい見れた部分は学びになったと感じています。

update 2025/3/1
Q.不幸せでも生きてゆく方法ってなにかあると思いますか?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.不幸せでも生きてゆく方法ってなにかあると思いますか?辛い状態が長く続いていて、正直生きるのが苦痛なのですが、楽に生きるにはどうすればよいのでしょう。幸せに生きるか、死ぬかのどちらかなのかな。

A.幸せじゃなくても、死にたいままでも、それなりに平穏に生きていくことはできる(ウ・サギはその状態なので)とは思います。
でも、「不幸せ」「辛い状態」というのは、幸せじゃないという次元ではなく、積極的に苦痛のあるものかと想像しています。そして、苦痛は周り(身近な人、周りの価値観、社会のあり方)との関係性の中で生じるものであり、辛い状態=環境が合わない状態、という側面が強いと思っているのですが、あなたはどうでしょうか。相手が悪いわけでないとしても、この人と関わっても、ここにいても、頑張るだけ不幸になっちゃうな・・・という場所はあるとウ・サギは感じています。
自分を変えられる幅は小さいですが、付き合う人と環境は、理論上は大いに変える幅があります。
どこで生きるかの選択肢が手軽にたくさんあったら、生きるか死ぬかではなく、さあ楽に生きれそうな場所を探しに行こう、という話になる気がします。そんな世界になってほしいです……。

update 2025/2/28
Q.ニキビがやばすぎて自分の顔が嫌いになりそう…なんでモデルとか周りの子達は綺麗な肌なの…?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.ニキビがやばすぎて自分の顔が嫌いになりそう…なんでモデルとか周りの子達はあんなに綺麗な肌で入れるんだろ…?割と意識して生活してるつもりなのに…

A.ウ・サギも身近な人を見て体感しているのですが、ニキビができるかは、体質に左右される部分が大きいです。ニキビができない体質の人は何も意識しなくても一つもできないし、できる体質の人は十分に意識してもできてしまう、というくらいの差があります。(その真ん中の人が多いは多いでしょうが)

だから、あなたの生活の意識が足りないとかの話ではない、とはウ・サギは伝えたいです。ただ、ニキビ対策にベストを尽くしたいなら、やはり専門家である皮膚科のサポートがあった方がいいので、皮膚科に行ってみるのはありだと思います。
皮膚のトラブルは感覚的な不快感もあるし、周りと比較しても苦しくなるし、やりきれないよなあ…とウ・サギは思います。

update 2025/2/28
Q.なんで皆、お葬式のときでも「死」をネタにしたり、帰ってきたらすぐに日常に戻って笑えるのか
この記事の担当 ウ・サギ

Q.なんで皆、お葬式のときでも「死」をネタにしたり、笑って話したりできるのでしょうか。
なんでお葬式から帰ってきたらすぐに日常に戻って笑って生きることができるのでしょうか。

A.あなたにとって、違和感やもやもや、許しがたさのようなものを感じるお葬式を経験してきたのだろうか…と想像して、回答を考えています。(違ったらすみません)
また、「なんで」という気持ちを抱えたまま、それを消化できずに、苦しい状態にいると受け取っています。

それ以上想像に想像を重ねてもズレていくばかりな気もするので、ウ・サギのこれまでの経験から、死をネタにして笑って話したり、お葬式から帰ってすぐ日常に戻って笑ったりできる場合と、そうはならない場合の違いを考えてみますね。

一つは、(たぶん生まれつきの)タイプとして、今や未来に意識が向きやすいタイプと、過去や記憶に意識が向きやすいタイプがいると思っています。今・未来タイプの人は、死を深く悲しんでいても、「日常にすっと切り替わる」部分はあるかもしれません。
別のベクトルとして、じっくり考えてから話したり行動するタイプと、なんとなくのノリや感覚で行動するタイプがいるとも思っています。そして、ノリのタイプは、何かを簡単に「笑って」ネタにしてしまうときがある気もします。(たぶん多くの場合、そこに悪意はないとウ・サギは感じています)

あとは、人は居心地の悪さや不安を抱いたときに、何かをネタにして笑うときがあるとは感じます。
そう考えると、周りは死というものに動揺を抱いていたり、向き合うことができずに、逆に軽い態度をとってしまうのかもしれません。
的外れなことばかり書いてしまった気もしていますが、何かの参考になれば幸いです。

update 2025/2/27
Q.障害者だから仕事につけなかったり収入が低いのは仕方ないことなんですか?
この記事の担当 生きかたカエル

Q.障害者だから仕事につけなかったり収入が低いのは仕方ないことなんですか?

A.障がい者だから~という考え方はカエルとしてはあまりしたくはないです。
もしもカエルが誰かに「カエルだから、はける靴がないのは仕方ないよね」と言われるととても嫌な気持ちになります。なぜなら、カエルと言っても、それぞれ違うからです。そもそも、カエルがみんな靴をはきたいと思っているわけでもないですし、はける靴があるカエルもいれば、そうじゃないカエルもいます。ただし、相対的に見て、人間よりもはける靴は少ない(まぁめったにお目にかかれません)ことは確かです。でも、それをもって「カエルは〇〇だから、仕方ない」と周囲に決められるのは違うような気がします。
それと同じように、「障がい者」といっても、一人ひとり違って、働くことに対してもそれぞれだと思います。それを、「障がい者だから」というまとめ方をすることには、(社会に向けて)異議を唱えたいです。

そして、次なる論点は「仕事につけない、収入が低い」という部分です。
カエルは「仕事に就く」ことと「収入が高い低い」は本来は別のことだと思っています。しかし、今の日本社会(人間界)が資本主義を採用していることから、仕事をすることと、収入を得ることがほぼ同義で扱われてしまい、しかも、収入が高い=立派な仕事をしていると勘違いしている節があります。
その勘違いが、「障がい者は仕事ができない、収入が低くて社会的地位が低く扱われている」という理解を生み出しているように思います。
本来の「働く」ことはお金以上の価値を生み出すことがあります(代表的なものとして、家事や子育て・介護、社会活動など)。また、労働をしなくても存在そのものが価値を生み出すことも当たり前にあります。資本主義の影響力が強いために、人間界がお金にだけ特別な高い価値があると思ってしまうのではなく、お金と並行してお金以外のものの価値をもう少し可視化したり、分かち合うような文化や仕組みができたら、障がい者だから…だけではなく、他の〇〇だから…仕方ないというまとめ方をせずに、大切なことを語り合えるような社会になるだろうとカエルは思っています。

さらには、そうした資本主義の中で金銭を稼ぐことがどうしても難しい人のためにどういう仕組みがあるのがいいかは別に考えていく必要はあると思っています。
カエルは現金じゃなく、住むところ(水道光熱費付き)と食べるものは現物で保障したらいいのにとかねがね思っています。その人なりの「働き(広い意味での)」に対して生活保障してくれたら、生活のために心身をすり減らして働かなければならないということはなくなると思うのです。(この辺は長くなるので、次の機会にとっておきます)

update 2025/2/27
Q.自分をわざわざ追い詰めるような考えをしてしまう なんなんだろう
この記事の担当 ウ・サギ

Q.自分をわざわざ追い詰めるような考えをしてしまう
なんなんだろう

A.考えをして「しまう」と表現されていたように、自分自身の意思ではなく「そうなってしまう」ものなのだろうとウ・サギは思いました。

どのような考え方をするかは、時代や環境にかなり左右されるものだとウ・サギは感じています。
質問者さんの考えがどのようなものかわかりませんが、自分を追い詰めるような考えは、物事の責任や過失を自分に求めすぎる、努力や結果のプレッシャーをかける、周りの反応を気にしすぎてしまう、などかなと想像しています。
今の世の中は「自己責任論」や「競争主義・能力主義」という、個人の努力を過剰に求める考え方や、「集団・同調主義」とでもいえるような、周りにどう思われるかを重視する在り方が流行しているとウ・サギは思います。そして、私たちは知らず知らずに、または身近な人から直接的に、それを取り込んでると感じています。

もちろん、それだけが全てではないと思いますが、自分を追い詰めるような考え方をしてしまうのは、自分を追い詰めるような考え方が流行しているせいだ、という要素は大いにあるとウ・サギは思います。
なぜそんな流行がおこってしまったのか、どうしたら過剰なそれらから抜けられるのか・・・みんなで考えていきたいところです。

update 2025/2/27
Q.中学までが義務教育なのに、なんで高校大学に行かないと就ける職業が減って給料も良くないの?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.中学校までが義務教育なんでしょ?なんで高校まで、大学まで行かないと就ける職業が減って、給料も良くないの?だって、中学までの内容が生きていくのに最低限度なんでしょ?だったら、もっと教育を皆が受けられる期間を長くすればいいじゃん。

A.教育と職業との関係性は、もっと議論と改良の余地があるし、変えるべきだとウ・サギも思います。
あまりウ・サギも詳しくはないのですが、外国のそのあたりの仕組みを色々見てみると興味深いです。どこかでは、大学はそもそも基本が「一回社会人になってから入るところ」で「入るのは簡単だけど卒業するのは大変」というものになっていると聞いたことがあります。あとまた別の国では、中学校くらいまでは共通のプログラムで、それ以降は手を使う方の職業にいくか、頭を使う方の職業にいくかで、全然別の学ぶ内容になる、というのも聞きました。(どちらもうろ覚えなので、違ったらすみません)
どのような制度にするのがいいのか、ぜひ一緒に考えましょう。

update 2025/2/19