Q.リスカがやめられません。どうしたらいいですか?
A.リスカって辛い気持ちを吐き出すための行動なんだろうなぁとやみーペンは思ってるんだよね。だからやめたいと思ってる時ほど辛いんだと思うから、どう付き合うかを考えれる場所があるといいなあって思った。
生きづLABOの「SOSの出し方ガイド」では、リスカは心のSOSかも、って話をしているよ。
またいつでも質問してね~。
Q.リスカがやめられません。どうしたらいいですか?
A.リスカって辛い気持ちを吐き出すための行動なんだろうなぁとやみーペンは思ってるんだよね。だからやめたいと思ってる時ほど辛いんだと思うから、どう付き合うかを考えれる場所があるといいなあって思った。
生きづLABOの「SOSの出し方ガイド」では、リスカは心のSOSかも、って話をしているよ。
またいつでも質問してね~。
Q.自分の「察する」ところ、「無駄にわかってしまうこと」。それに苦しむ私。自分の現状を、「私は抑うつ状態である」「私は気分変調症の可能性がある」と表現できる人が、苦しいんでいるわけがない、…そう思われると思う。私より辛い人がいるのはわかってる、自分のことそんなにわかってるなら重症じゃない、そんなのわかってるけど。ただ児童精神科医学に興味があっただけ。苦しいし、死にたい。自分の現状がわかってしまうこと、他の人の感情が自分に入り込んでくること。わかりたくてわかってるわけじゃないのに。
A.分かるとか感じてしまうことって難しいよねぇ。やみーペンも母ぺんぎんと暮らしてた時の名残で色々分からなきゃ!と強迫的になってる部分があるから勝手に分かるような気がしちゃってるよ。
でも辛いって、誰かや何かと比べられる物じゃないから、自分が辛いなら辛いでいいと思うんだ。比べるほど、さらに苦しくなっちゃわない?
辛い気持ちは1人じゃどうにも出来ないときもあるし、誰かに手伝ってもらいたいけど、自分を助けられるのは自分だけなのかも…ってやみーペンは最近思ったりもする。
誰かを助けることはできないけど、一緒に自分を助ける方法を考える仲間になら、やみーペンもなれると思うんだ。
Q.大きなストレスがあって心が緊急事態のとき、どう過ごすのがいいと思いますか?
A.人それぞれなので、参考になるかはわかりませんが
(1)ストレスを何かの刺激で一時的にかき消す~漫画を読む、動画を見る、やむを得ない場合は身体的に自分を痛めつけるなど
(2)自分がリラックスできるもの、安心できるものになるべく触れる~好きな食べ物、好きな場所、好きな言葉、誰かにもらった嬉しい言葉など(元気なときにそういう好きアイテムをストックしておくのがおすすめ)
(3)感情やもやもやのエネルギーを発散する~カラオケ、散歩、ノートに気持ちを書くなど
(4)信頼できる人と話す(吐き出せたらベストだけど、ただ何気ない会話するだけでも一定程度落ち着く気がする) ※ただ、そもそもそんな人がいたら苦労してないというのはある…
といったいくつかのアプローチの種類はありそうです。
緊急事態はいつやってくるか分からないものなので(来ないに越したことはないですが)、備えは十分にしておいた方がいいなと、書いていて改めて思いました。
ウ・サギもそこまでストレス対処が上手ではないので、本当はもっといろんな人に聞いてみたいところです。
~これまでのお話~
①社会モデルとは?
②本当はつながっている
ちょっとカエルが注目していることに、精神医療国家賠償請求訴訟の活動があります。
精神障がいのある方たちが治療の必要がないのに、本人の意思ではなく、地域に受け入れ先がないなどの理由で長期入院を余儀なくされた方たちに対して、国が必要なことをせずに放置したことの責任を訴訟を通じて、問うているものです。
精神医療国家賠償請求訴訟研究会 | 鳥は空に魚は水に人は社会に (seishinkokubai.net)
この活動のことを聞いた時にカエルがすぐに考えたのが「家庭内の暴力被害も同じ状況だなぁ」と言うことです。
これだけ、家族や家庭というコミュニティの中で起こっている人権侵害があるにもかかわらず、それが放置され、子どもや障がい者、女性など、弱い立場の人たちが暴力被害にあい続け、その結果、長い期間その後遺症にも苦しみ続けるのに、それに対する治療法や支援策が本当に乏しいし、自己負担だったりするのが本当におかしいと思います。
これは「不作為責任」と呼ばれるものです。
このサイトでは不作為責任は以下のように説明されています。
「不作為とは、あえて積極的な行為をしないことです。そのままでは不利益をもたらす事を知りながら、それを放置していた責任を不作為責任といいます。」
国家賠償という言葉から、国が悪い!という発想になりがちですが、カエルは不作為責任は誰が悪いか、誰を責めるかと言うことではなく、一人ひとりが「あえて積極的な行為を少しだけやる」ことが大切だと思っています。
それ以上にカエルが大切だと思うのが、何もしないことではなくその前提となる「そのままでは不利益をもたらす事を知りながら」という点です。
精神科病院の社会的入院に関しても、そして、家庭内で起こっている暴力に関しても、「そのままでは不利益をもたらす事」があまりにも知られていないことが問題なのだと思うのです。
だからこそ、生きづLABOや連携サイトの死にトリのような情報発信はとても大切だと思っているのでした。
不作為によって、権利侵害を受けた人たちが率直に経験を語り、考えを発信し、問いかけていくことはとても貴重な機会です。
誰もが自分が生きているこの今の社会とのつながりが広がり、そして、自分たちがまだまだやれることやるべきことについて考えることがとても大切です。
現状は確実に「このままでは不利益をもたらす事」があります。
今後も、多くの人たちとそれらをより深く知り、受け止める機会を作りたいと思っています。
前回は、「生きづらさというのは、個人の問題じゃなく、社会のあり方の問題だよね」という「社会モデル」の考え方を説明しました。
しかし、それが社会の中ではスタンダードとは言えず、どちらかというと自己責任、個人責任が優先されてしまうところがあるということ、その要因としては、全体的に人間社会の中に余裕がないことが大きいのではないか、という話もしました。
今回は、その余裕のなさの背景を考えてみます。
今の人間社会では、何か現実的ではない理想や望みを、私たちが追いかけ続けようとしているのかもしれないと思うこともあります。
迷えるおたまじゃくしたちと関わっていても、お金がないと生きていけないとか、働かないとだめだとか、〇〇できないと、〇〇しないと…という焦りや強迫性を感じます。
でも、ふとカエルは思うのです。
「そんなに焦る必要があるのかな?」と。
必要だとか、ほしいという希望ではなく、「〇〇しなければ」「〇〇するしかない」が動機の中心になることは、とにかく我慢と忍耐でお金のために働く人を増やすためには、役立っているのかもしれません。でも、人を資本と考えた時に、人を育てたり、人の生活を豊かにしたり、人を大切にするという発想は置き去りになっていると思うのです。
その置き去りは、じわじわと知らないうちに私たちの生活の中から、大切なことについて考える機会を奪い、自分が知らないところで自分とつながって起きているはずのことを「他人事」にしてしまうと感じています。
今必要なのは、今この社会(地球規模でも)で起こっていることはすべてつながっていて、そのつながりについて私たち一人ひとりが自分なりに理解をしていくことだろうと思っています。(カエルの世界と人間の世界もつながっています!)
<続く> → ③「不作為責任」を考える
こんにちは、生きかたカエルです。
最近、社会について語る記事をせっせと作成し、ブログの更新を頑張っているところです。今回は「『社会モデル』と『不作為責任』について」を、全3回で連載していこうと思います。
(第1回は「社会モデル」の話になるので、「不作為責任」が気になる方はひとまず検索してみてください笑)
社会モデルとは、主に障がい福祉の分野で使われる用語で「生きづらさ」は何なのか、どこからくるのか理解するための言葉です。
障がいを持つ人が生きづらいのはその能力の問題が原因なのだ(=「個人モデル・医学モデル」つまり、個人の責任)に対して、障がいがあるというだけで、持っている力を発揮できないのは、サポートが行き届いていなかったり、発揮するような機会がこの社会になかったりするから生きづらいのだという考え方のことを「社会モデル」というのです。
つまり、生きづらさというのは、個人の問題じゃなく、社会のあり方の問題だよね、と言うこと。
カエルは何の疑いもなく、その通りだと思っているのですが、実際の今の社会はそうじゃないことだらけで嫌になってしまいます。
一方では、障がい福祉分野の人材育成の現場では「社会モデルがスタンダードです」と伝え続け、それを共有する仲間たちが、現場でも頑張っていますし、国が主催する研修や専門職養成の場でも社会モデルは当然の考えとして出てきます。
でもやっぱり、社会の中ではそれはスタンダードとは言えず、どちらかというと自己責任、個人責任が優先されてしまうところがあります。
全体的に人間社会の中に余裕がないことが大きな要因の一つかなぁという気もしています。
<続く> → ②本当はつながっている
~これまでのお話~
①暮らす自由が守られていない
②家から出る応援をする
③家族から抜ける手続き
最後に改めてお伝えしたいのは、特殊チームから抜けるためにこんなにも苦労するのはそもそもおかしいということです。
だから、本当は何も持っていなくても、どんなに説明がうまくできなくても、そんなことはどうでもいいのです。
守られるべき権利が絶対で、本人を証明するものがなくても、必要な物を持ってきていなくても、何もわからなくても、わがままだという人がいても、働くことができなくても、お金を持っていなくても、嫌なチームにいる必要はないし、抜けられるのです。
生活費も何とかなります。未成年でも単身で保護は受けられますし、今は事情を話せば家族への扶養照会も配慮してもらえます。
これからは、誰もがチームに縛られることなく、家族という特殊な関係に関わらずチームが作れたり、解体できたりするといいし、いくつものチームに入れることがいいのではないかと思っています。
そう考えると、カエルが出会ったおたまじゃくしたちはみんな、家族じゃないけれど、緩やかなチームである感じがします。
必要な時に声をかけあって、できることはお互いにやるし、何かの目的があればチーム編成をして、ミッション達成のために動くし、でも、必要なければチームでは動かない。
そんな多様なチームをたくさん持てる社会になるといいなぁとカエルは思っています。
~これまでのお話~
①暮らす自由が守られていない
②家から出る応援をする
やっとのことで家を出ても、日本の家族のつながりは特殊性があり、住民票や戸籍を通じて居場所がばれてしまうという課題があります。
同じ住民票にいた人なら、誰かが転居したら、その転居先が記載されるので、すぐにわかってしまいます。
また、戸籍が同じであれば、戸籍の附票をとれば、その後も簡単に追いかけることができます。
手続き上、同じチーム(住民票、戸籍)に一度所属していたら、抜けた後も情報がばれてしまうのです。
つまり身内に関しては無駄に寛容で、そこには個人として尊重させるという姿勢が欠けています。
しかし、その後に一切居場所を知られないようにすること、関係を切ることは可能です。
そのために、「住民票の閲覧制限(支援措置)」という手続きがあります。
暴力などの権利侵害から守られるよう、住民票や戸籍を他の人には見せないようにブロックをかけることができるのです。
ただ、これは今のところDVが中心にできていて(虐待も対象とされてはいます)、虐待ではスムーズにいかない場合もあります。
性的虐待や身体的な虐待はわかりやすいのですが、心理的な支配、抑圧、教育虐待など意思決定への権利侵害については、閲覧制限を申請するための書類を書いてもらえずに手続きできないことがあります。
そうなると、離れた状態をまず保ち、もし何かあったら、警察や弁護士にすぐに介入してもらい、権利侵害の証拠や実態を明らかにしていくしかありません。
つまり、ブロックをすることはできるが、ブロックをするためにはそのためのわかりやすい証拠が必要、というのが現状です。
また、戸籍については、20歳を過ぎると戸籍を分ける(分籍)をすることができます。
分籍をすれば、完全に探されなくなるわけではないですが、追いかけるのは少し面倒になりますし、何よりチームからは離脱できます。
そう考えると、戸籍や住民票といった強制的チーム制がよくないとカエルは常々思っています。
基本は一人戸籍とし、チームを組みたい人は自由に組めばいいのではないでしょうか。
何より、抜けたい人の自由を奪ってはならないと思います。
家族から離れて、別の土地に行き、自立の道を探ろうとしたときに、行うべき手続きの一つに健康保険があります。
この健康保険は、出てきたチーム(家族)の扶養になっていることが多くあります。
その場合、健康保険は二重加入はいけないことになっているので、入っている健康保険の扶養から外してもらわなくてはなりません。
でも、家族との関係を切りたくて、強制的に離れてきて、居場所も知られていない、連絡も取りたくない時に、扶養から外してもらうのはとてもとても大変です。
連絡が取れたとしても、扶養義務者が「イヤだ、外さない」と言ったら、厄介なことになります。
健康保険は、そういった事情の場合には本人から離脱の意思を確認されたら、抜けさせてくれるようにしようという方針が出されているそうです。
世の中も少し権利侵害の実態を理解し動いてくれたなぁと思いますが、まだまだ本当に些細なことです。
10代の若者が自分が何の健康保険に加入しているかなんてわからないことの方が多いですし、保険証を持っていれば別でしょうが、預けていて持たせてもらえないとか、そういったものを持たずに逃げてきたなどと言った場合にはなかなか難しいことになります。(お願いする健康保険の会社がどこかわからないと頼みようがない)
若くして家族から逃れたいと思っていて、家族の扶養に入っている場合には保険証をもって家出をしましょう!(コピーでもよいです)
それと、身分証明の問題もあります。
市役所で転居手続きをするにも役所の申請は自分の身分を証明するものがないと、申請者にはなれないという基本ルールがあります。
運転免許証、パスポート、マイナンバーカード、健康保険証、学生証、障害者手帳、キャッシュカード、診察券などいろいろな物でグレードがあり、それらの組み合わせで本人確認をするのですが、着の身着のまま逃げてきた場合にはそういった物が一切ない場合も多くあります。
そもそも、免許とか簡単に取れないし、学校もやめたら学生証もないし、通帳もキャッシュカードも持ってないし…という具合です。
そんな時、一緒についていった人が代理人となり、委任状を作成して、本人確認できる人が申請することができます(カエルも、何度もやりました)。
または、本人にしかわからないような質問をされて、確認されることもあります。
だいたいは、家族構成、それぞれの家族の名前、生年月日などを聞かれます。
でも、これがまた若者たち、自分の家族の生年月日とか覚えていないですよ…
なので、嫌かもしれませんが、家から出たい若者たちが遠くに逃げようと思うときには家族の氏名、生年月日も覚えておくと便利です。
まぁ、マイナンバーカードを作っておくと最強です(笑)
<続く> → ④まとめ
前回はこちら → ①暮らす自由が守られていない
家を出たい18歳未満に出会ったら、話を聞いたうえで、意思確認をしていきます。
家から出たい気持ちが強い場合には、本人の同意をもらい、児童相談所への相談のアシストをします。
どのように児童相談所に相談したらよいかを伝え、可能な場合は一緒に行くこともしますし、離れていたら、行く前に電話をして事情を伝えます。
そのうえで、相談後についてもプランをたてます。
つまり、一時保護を含めて、本当に家から出られるための先の方法を考え、用意するのです。
例えば、一時保護は児童相談所の中に保護所がありますが、空いていないこともあります。
その場合は、一時保護委託といって、自立援助ホームや児童養護施設、里親さんが一時保護を受け入れることができますので、受け入れ先を検討しておきます。
また、中学生や高校生などの年齢であれば、一時保護ではない形のサポートも考えられます。
児童相談所の理解をもらい、本人の意思と周囲の理解が合致すれば、親戚の家や友達の家や制度外の支援者の生活支援なども選択肢になるでしょう。
ただし、その場合は制度外なので、受け入れ先がどれだけ児童相談所の信用を得ることができるのかがポイントになりますし、本人の意見を前面に出すことも大切になります。
(その際は、児童福祉法の第二条に書かれている「意見の尊重」「子どもの最善の利益」を前面に出しながら、具体案を用意して交渉します)
本人が家に帰りたくないのであれば、潜在化している性被害からのリスク回避の意味でも、長年の抑圧の被害の後遺症の可能性を考えても、すぐに気軽に出られるような仕組みがとても大切です。
それは、物理的に嫌なところから離れて少しは穏やかに過ごせるようにという意味もありますが、「こんなのイヤだ、助けて!」と発した時に、実際に助けてもらえるという経験になることの方がもっと大切です。
逆に言うと、「助けてって言ったのにダメだった」「嫌だと言ったのに我慢することになった」「自分の気持ちを言ったら余計ひどい目にあった」という経験をさせてはいけないということです。
それが、現実はほんと逆なことが多いのが悲しいところです。
だから、助けを求めた経験が次に助けを求めることを後押しするのではなく、ためらわせる要因になってしまいます。
また、未成年の場合は児童相談所と同時に警察にも先に相談に行きます。
事情を話して、保護者が強硬策に出た時に介入してもらえるようにします。
この時にも説明の仕方が重要です。
そして、どんな警察官にあたるかも重要です。
(悲しいことに)人には当たり外れがあるので、外れたと思ったら、別の人にあたるなどできる努力をします。
そのあたりに不安がある際には、弁護士さんを味方につけます。
警察との交渉も手伝ってくれますし、代理人になってもらい、保護者からの連絡を代わりに間に入って引き受けてもらうこともできます。
そうやって家族から離れること、追いかけられて、連れ戻されないような手立てをとります。
<続く> → ③家族から抜ける手続き
どこで暮らすのか、誰と暮らすのか、どう生きるのか…それらは本来、(著しく社会的に逸脱していない限りは)自分で自由に決めていいはずです。
でも、家族という特殊なチームにおいては、その自由が保障されないことがよくあります。
カエル的には、家族の治外法権と呼びたいと思うほどです。
(ちなみに、学校も治外法権だと思っています。だって、校則は基本、憲法違反だと思うんですよね…それは機会があったらその時にでも)
実際のところ、家族においては、お金や力を持つチームメンバーが、チーム全体の生き方や決定を握り、民主主義や法治国家の原則から外れてしまうことが当たり前に起こります。
とくに、子ども、女性、障がいのある人などが自由を奪われる側になることが多いです。
しかし、それは単純に「自由を奪う側の人間に問題がある」と批判すればいい問題ではありません。
今の社会全体の力関係や権力の構造が、力の強い者の在り方に弱い側がコントロールされる要素を、多く含んでいるのです。
人間関係に力関係はつきものなので、狭く固定化したコミュニティで何かしらの問題が起こることまでは仕方ないとしても、それを嫌だと思った時にそこから抜けられる自由が保障されるべきだと思っています。
「家から出たい」という願いはいたって健康的な選択だと思いますし、まっとうな希望だと思いますし、ぜいたくでもないし、当然だとカエルは思います。
家以外のところで暮らしたいと願う人に出会ったら、権利の保障として、必要なお手伝いもしてきました。
しかし、世の中には、その健康的な選択を応援する仕組みや手立ては、なかなか見当たりません。
逆に、それを阻むことの多さにうんざりしてしまいます。
とくに未成年は深刻です。
具体的にイメージしてみましょう。
未成年は、家から出ると捜索願が出され、警察にすぐに探されます。あっという間に居場所がばれます。追いかけられ、連れ戻されます。(親が無関心の場合は除く)
18歳未満だったら、児童相談所に駆け込む方法がありますが、保護者が謝ったり、反省しているふりをしたりと大人の対応をすれば、たしなめられ、帰るように諭されることもしばしばです。
実際にそうして連れ戻されて、絶望した話はよく聞きます。
だからカエルは、家を出たい18歳未満に出会ったら、本人の同意をもらい、児童相談所への相談のアシストをします。
記事が長くなってしまうので、具体的な方法は、次回詳しく説明します。(このシリーズは全4回です)
続き → ②家を出る応援をする