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私は恵まれた家庭で育ちました。それなのに・・・

自閉スペクトラム症&HSPの世界とは

海野つばさ(仮名)
海野は高い能力をもって生まれ、安定した家庭で育ち、いじめに遭うこともなく人生を歩んできた。それにもかかわらず17歳でうつ病となり、病気が寛解しても、10年間希死念慮の波との付き合いが続いた。自閉スペクトラム症&HSPの人が抱える、セルフケアとセルフコントロールの難しさとは・・・?

1.プロフィール

2022年現在20代後半。生物学的女性。
北海道生まれ北海道育ち。

2.生きづらプロフィール

発達の偏りでは自閉スペクトラム症(以下:ASD)、気質の特徴ではHSPをもっている。
※HSPとは・・・Highly Sensitive Person。人一倍敏感な人

性格は非常に真面目で、責任感が強く仕事熱心であり、うつ病になりやすいといわれる「メランコリー親和型性格」に当てはまる。
また、真面目なだけではなく、自分の能力を伸ばしたい気持ちが強い。向上や達成が一番のモチベーションであるため、変化の少ない低刺激な環境で過ごすよりも、多少負荷があっても力を発揮する場を求める。それは一概に生きづらさになるとは言えないが、変化に柔軟に対応するのが苦手でキャパシティが狭いASDの性質と、疲れやすいHSPの性質とは相性が悪く、海野にとっては生きづらさにつながっている。

3.経歴

幼少期:過敏とこだわりだらけの子ども

地方都市の大家族で育つ。幼少期は母、父、祖母、祖父、叔母2人、姉妹2人、犬2匹、本人を入れると9人と2匹の家族構成であった。
赤ちゃんの時から過敏さを発揮しており、抱っこして揺らしていないと泣く、抱っこされるまで1時間ほど余裕で泣き続けるなど、育てるのが大変な子であった。あまりに泣くため家族に「同じ部屋だと眠れない」と言われ、母親は茶の間で寝かしつけを頑張っていた。人見知りも激しく、同居家族であるにも関わらず、母親と祖母以外が抱っこをするとチアノーゼを起こすほどに泣いていた。眉間にシワを寄せて「わたしをいじめる?」と言いたげな顔をいつもしていたらしい。
ASDの特徴についても、離乳食が食べられない(べたべたした食感が苦手なのは自閉によく見られる)、歩けるようになっても寝返りができない(運動機能のアンバランス)、自分で決めたこと・納得したことしかやらない(こだわり)、想定外の事態になるとフリーズする(限定された想像力と柔軟性のなさ)など、はっきりと表れていた。ちなみに離乳食は結局受け付けず、一足飛びで白米を食べるようになった。

学童期:小学校への適応について

小学1年生では、教えられたことや指示を「~しなければならない」と絶対的な決まりだと感じてしまうことで、いくつかの問題が起こった。具体的には、宿題を忘れたから学校に行けない(宿題は忘れてはいけない)、書写で2時間かけて一文字も書けない(字はそっくりに書かないといけない)などである。家族に理解があったこと、担任の先生の対応が上手かったことで強迫性を解除できたが、一歩間違えれば学校に行くのが難しくなっていた可能性もあるだろう。
対人関係についてはコミュニケーション能力が高いわけではなかったが、無害で受け身であるおかげで、自分のペースで遊びたい子から一定の需要があった。小学1年生での困難をクリアしてからは、おおむね問題ない小学校生活を送ったといえる。

中学校時代:女子中学生への擬態、そして不登校

小学校で仲の良かった子とクラスが離れてしまい、中学1年生の時はクラスで孤立。受動型ASDの海野には、要求される通りに遊んでいればいい人間関係はこなせても、相互に・積極的に関心を抱く(自意識が生まれてからの)人間関係は難しく、そもそも理解すらできなかった。一人で過ごすのを苦にしない&周りの目を気にしないタイプであったため、とくに不満はなく、友達がほしいと思うこともなかった。しかし、中学1年生の夏休みに長期の自然体験キャンプで初めて本当に気の許せる友達ができたことで、友達を作ってみようと考え始める。(自然体験キャンプの経験は今後の人生にも大いに関わってくる)
中学2年生で陸上部に入り、友達を作る努力を開始。それは受験勉強のように女子中学生の傾向と対策を見つけて知識を詰め込み、軍隊のように思考や行動を調教していく繰り返しの日々であった。よく話題に出るJ―POPやファッションやドラマを急ごしらえで一通り勉強し、相手の気持ちや興味に関心を抱くよう心掛け、よく笑ってほどほどに悪口に同調し、毎日「あの時の話し方はスムーズじゃなかった」などと反省日記を書いていた。また、自分の振る舞いだけではなく感じ方も矯正しなくてはならないと考えており、楽しめない自分を隠すという方向性ではなく、楽しめない自分がおかしい・本当は楽しいはずだと自己暗示をかけていた。
しかし、そんな自分で自分にモラハラする日々が長く続くわけはない。スキルはみるみる向上し陸上部の部員とは友達になり、それなりに気を許せる相手も一人できたが、徐々に学校に行くのがしんどくなってきた。学校から帰ってくると疲れ果てて、妹に普通に話しかけられただけで「お前なんて生まれてこなければよかった」と暴言を吐くほどに精神状態は悪化していた。
そんな頃に、母親の「あんたは勉強ができるんだから、高校に行かずに高卒認定をとって大学行けばいいんじゃない?」「その間、自然体験キャンプのNPOに手伝いに行くのもできるし」という発言に「その手があったか」と納得。中学3年生の6月に登校をやめて、女子中学生も引退することになった。

15歳~17歳:自然体験教育を志すオリジナルな青年期

中学校に行くのをやめてから精神状態は回復。家では主に、家事の手伝いと勉強をして過ごしていた。高校に行く年齢の3年間をどう過ごすかは、高1の年齢は実家で勉強をなるべく進めて高卒認定をとる、高2の年齢は自分が参加していた自然体験キャンプを運営しているNPOの手伝い、高3の年齢は受験勉強、というプランを描いていた。
計画はおおむね順調に進み、高2の年齢では無事にNPOで丁稚奉公のような形で(衣食住完全補償、ほぼ無給)働き始める。個性的な大人と大自然に囲まれて過ごした日々は、海野の中で大きな財産となっている。仕事についても、もともとが参加者でキャンプへの愛着や情熱が人一倍あったこと、能力がアンバランスながらも高かったことで、大人とほとんど同等に活躍することができていた。海野は徐々に自然体験教育を生業にしたいという思いを強め、当初の予定の1年間が終わってもひとまず仕事を続けることにする。
しかし、キャンプの仕事は性質上、ASDの苦手分野である社交性や、柔軟な対応が求められる場面が多い。「仕事をやるなら苦手をつくってはならない、全部できなくては」と思いこんでいた海野は、やる気が高くなるほど自分を追い込み、徐々に心身を消耗していく。結局、高3の年齢の夏終わりにうつ状態となり、実家に戻ることとなった。

18歳~24歳:心の迷走と自己抑圧

病院に行き、うつ病の診断を受ける。大学受験の勉強をしていたが、少し頑張ると涙が出て続けられなくなり、何もやらなければやらないで焦燥感が強く、いつも心が不安定であった。そこで、とりあえず現役での受験は諦めることにし、生きづらさを抱える若者の当事者活動に参加するようになる。当事者活動ではASDの苦手分野が出てくることは少なく、海野の高い分析・言語化能力を生かすことができ、安心感や自己有用感を得られた。といっても精神状態が安定していたわけではなく、不安焦燥感、自己嫌悪や自信のなさ、希死念慮などの波は存在していた。
安心や有用感を得られる一方、当事者活動は、海野の抱えるもう一つの生きづらさ、HSPの側面には重い刺激となっていた。他者の痛みを感じ取って引きずられやすかったため、他の人の話を聞くほど「自分の痛みなんて大したことないのに」という考えが強固になり、そこにASDの強迫的な要素が加わることで「恵まれている自分は頑張らなくてはならない」と海野は再び自分を追い込んでいく。また、その頃は大学教育よりも活動に魅力を感じており、受験をする気はなくなっていたが、常識に照らし合わせて自分が中卒で精神疾患歴のある人間であることに不安を抱くこともあった。つまり、自分という軸を作りきれないままに、頑張りだけを続ける状態になってしまい、20歳でまた大きくメンタルの調子を崩すこととなった。
その後は半年ほどで状態は落ち着いたものの、自分への信頼や自信のようなものはほぼ完全に失われていた。学校、自然体験教育、当事者活動・・・どれも「頑張ったらなんかメンタルが壊れた」という自己分析になってしまい、「じゃあ頑張らなければいいんだ」と興味が薄く向上心のあまり湧かない仕事に就くことにした。自分の能力を発揮し向上させるのが生きがいの海野にとっては、ある意味では自分を生きるのをやめる選択である。それで確かにメンタルの大きな波はなくなったものの、自己否定や希死念慮は慢性的に傍に居続け、人間関係にも消極的になっていた。

25歳~現在:エンパワメントの始まり

仕事で新しく始めた業務が自分の能力に合っていたこと、そこで出会った仲間によい刺激を受けたことで、変化が始まる。能力を発揮すること、(自分を向上させる刺激をくれる)人と関わることが、どれほど自分の喜びだったかを思い出し、「上手くいかなかったことも、上手くいかないからと自分を殺したことも含めて、これまでの人生はつらかった」と自分で自分の気持ちを認めるようになった。それまではすべて「自分が悪かったせいだ」「他の人に比べたら大したことない」という思考で、自分のつらさを見ず、むしろ積極的にいじめていた。
自己抑圧をしてきた時期の長さと重さは未だに心を蝕んでいるが、やっと確かな一歩が始まった手応えを海野は感じている。

4.生きづらさが蓄積した要因

  • 自分の感じていることを理解できなかったのが、とにもかくにも最大の要因だろう。心の「嫌だ」は体の「痛い」に似ていて、生命維持の危険を示すサインであるにもかかわらず、苦手も疲労もつらさも無視してきたのだから、心が壊れて当然である。
  • 感じていることを自覚する難易度には、かなりの個人差がある。海野はASDとHSP両方の性質を強くもっているため、そもそも感じることがかなり多く、他人がそれを理解するのも難しい。定型発達の人は10ある刺激から適切な1を選ぶ、ASDの過敏は10あれば10全部を感じてしまう、HSPの過敏は適切な1を選ぶものの1を10倍深く細やかに感じる、と聞いたことがあるが、それを素直に当てはめるなら19~100倍の刺激の中を生きていることになる。また、ASDには疲れの自覚が下手な傾向、HSPは他者の感情に引っ張られて自分の感情を見失いやすい傾向もある。
  • ASDの認知と日本の教育・文化との相性が悪い。ASDには言葉を字義通りに拾ってしまう&曖昧なものを理解できない傾向があるため、「~しなくてはならない」「~しろ」という表現をそのまま信じ込んでしまい、「~してもいいんだよ」は意味が分からなくてスルーしてしまう。基本的に努力は命令形で、休憩は推奨になるため、入ってくる情報が偏る。真面目な性格が合わさるとさらに、頑張ることだけを覚えて、セルフケアを全く身につけられない。
  • 最も多感な10代後半の時期に、対等な友達と呼べる存在がいなかった。自然体験のNPOで働き始めてからは、同年代とは生きている世界があまりに違い、仕事や活動の仲間は多かれ少なかれ利害関係が伴った。それは社会構造的に深めていくと、学校以外の選択肢が極めて乏しいことで、海野の進路選択がかなり特殊なものとなってしまい、環境面のギャップが周囲と開きすぎたのが問題の本質となるだろう。ただし、海野の場合は、そもそも精神的に早熟であったことも、対等な友達が作りにくい要因になっている。
  • 自分なりの倫理観や行動規範をもっており、自己を律することを好む。つまり、感じたことや感情を自覚できないだけでなく、分かっていたとしても無邪気に出すことをしない。自分の考えについても、考えていることはかなり多いにも関わらず、きちんと伝えられると判断した時にしか口にしない。「感じたことや考えたもの:発散や発信をするもの」の比が30:1くらいのイメージである。たとえそれが自分の生き方のスタイルだとしても、何を溜め込んでいくことは、心身への負荷が大きい。

5.生きのびる力につながった要素

  • 家庭環境、生育環境に恵まれている。家庭で存在を否定されたことがないのは勿論、自由に生きている多様な大人、規則正しい生活、豊かな食事、1日30分に制限されたゲーム、自然体験キャンプへの惜しみない投資など、子どもの健やかな成長に必要な栄養素を浴び続けた。それは心の支えとは違うが、地力や生命力につながっている。また、家事スキルや金銭感覚など、生活能力も身についている。
  • 学校でつらい経験をほとんどしていない。学校は基本的にルーティンが多く、ルールを守ることを重んじ、勉強ができることの評価が高い世界であり、どれも海野にとって都合がよかった。担任も、小学校1~2年生の先生が良かったのは勿論、その後も支配的な先生に当たることはなかった。友人もマイペースで大らかなタイプが多く、人間関係がギスギスしたことはほとんどない。中学1年生の時も孤立はしていたが、いじめられることはなく、本人に他人への興味がないせいか、スクールカーストの下というよりは外部にいる状態だった。中学校を途中でやめてからは一切学校に行っていないため、同族集団で苦しい思いをした経験は、多くの女子と比べたら「無い」に等しいだろう。仕事でもハラスメントに遭ったことがないため、社会生活において、攻撃を受けたことがない。これは今の社会で生きるASDにしては、かなり幸運といえるのではないだろうか(本当はそれが幸運ではなく、当たり前のことにならないといけませんが)。
  • 基本的には能力が高く、人間関係も器用である。HSP要素で他人の感情や世界観を感じ取るのが得意であるため、トラブルを起こすことを避けられ、しようと思えば自分の都合のいいように相手を操作することもできる。ASD要素で能力の凸凹は激しく、臨機応変な対応も苦手だが、IQと分析能力の高さで「こういう時はこうする」という膨大なマニュアルを作り上げて、多くの場合は適切に動けるようになっている。また、家族が全員勤勉で正直であったため、良くも悪くもサボることや偽ることを知らず、仕事で好感を抱かれやすい。一方でそれらすべては、大いに疲労を伴う。
  • 中学生の頃に、最低限はアイデンティティーを確立することができている。中学1年生で初めての気の許せる友達ができた後、同じく自然体験キャンプで、感じ方をかなり分かち合える親友もできた。NPOで働き始めてからは2人と会う機会はなく、頑張りや混乱の中で徐々に自分を見失っていったが、見失っていない時期もきちんとあったのは事実であり、おそらく生きのびる力になっている。
  • 25歳前後で関わり始めた仕事仲間と、相性や出会うタイミングがよかった。海野の精神的な波が少なくなり、聞き役がいれば自分のことを話せるようになった段階で、相手の世界観を想像して話を聞くのが得意なタイプの人たちと出会えた。聞き役がいてこそ、自分の感情を自覚すること、言葉にすることができるようになる。
  • 他人に興味が薄い。周囲の評価を意識して悩んだり、自分の容姿を気にする機能がなく(ただしその2つは虐められた経験がないことも影響しているだろう)、友達や恋人がほしい気持ちもあまりない。少なくとも、そのために手間やお金をかけることはない。ある意味では楽な人生といえる。
  • 表現する力が高い。感じたことを「その場で」「感じたままに」発信する能力は壊滅的にないが、自分の想いや考えを言葉にするのは得意である。

6.伝えたいこと(本人の言葉)

「生きていればいつか良いことがある」「止まない雨はない」とか、「(つらかったことを)忘れられたらいいのにね」「いつか立ち直れるよ」みたいな言葉がキライだ。 いつか良いことがあったからって過去のつらさがなかったことにはならないし、その「いつか」までどれほど待ったらいいのか、あなたは何かをしてくれるのか、と問いたくなる。雨が止まないままに終わる命もあるし、この雨が永遠に止まないと「感じる」なら、それがその人の真実だと思う。
忘れるのも、立ち直るのも、なんだかどうしても発想に違和感がある。だって私はとくべつに不幸や不運だったわけじゃなくて、ただ普通にこの社会で生きていたら、病んでいたのだから。上手く言えないけど、これは私たちが生きている社会が内包している問題で、忘れてはいけないし、私個人が立ち直ればいいわけでもないはずだ。私が平和な世界でたまたま穴に落っこちた不幸な人間なのではなく、過ちと暴力だらけの世界でたまたま一握りの幸運を手にしたのがあなたでしょ、と思う。
誰かを恨み続けたり、何かのせいにして、投げやりになるのは違うかもしれない。でも自分の人生が苦しいのは、自分が悪い子や出来損ないだったからではない。その「自分個人のせいじゃないんだ」というのが回復の出発点だと思うから、まずは誰かとか何かのせいにしていいと思う。恵まれているからとか、大したことがないのに「なぜ病んでしまったのだろう」ではなくて、病んだのなら「それだけのダメージがあった」ということ。
病んでしまうのは、死にたいと思うのは、自分の身体に負の感情が溜まりすぎているサインだと今の私は考えている。だから怒りだろうと妬みだろうと、どれほど醜い(と自分では感じてしまう)感情でも、まずは認めてあげることが大切だと思う。それをいつどこで誰にどう出すとか、その上で自分がどう生きていくかは、また別問題だけど。 そんなことに気づいたら、「死にたい」は随分遠ざかっていって、時々一晩中世界を憎み続けるだけになりました。それでもなぜか、自分以外の人には苦しい思いをしてほしくないと思うので、みんなが生きやすい社会になってほしいし、自分もそのために出来ることをしていきたいです。