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母は絶対的な理解者だと思っていた

母との共依存から、自分を取り戻すまで

揚石遥香(仮名)
理不尽なことでも母の言うことに従う、母のご機嫌をとるための存在として、遥香は育てられた。リスカとODで自分をコントロールできない状態にあっても、努力して仕事について、両親を支えなくてはと思っていた。そんな遥香がつくられた過程と、そこから抜け出すまでを、丁寧に掘り下げる。

1.プロフィール

2023年現在30代前半。女性。AO型のA型。

2.生きづらプロフィール

10代後半に、境界性パーソナリティー障害の診断を受けたことがある。現在もその傾向はあるものの、社会生活に影響はない範囲になっている。
本人は自分のことを「流されやすく小器用な人間」と表現しており、性質や気質 の偏りはあまり無く、生育環境が生きづらさの要因だと感じている。
ただし、音や光、匂いについて、いくつかの過敏がある。とくに音については、空調の音や、外の車の音や遠くのチャイムの音までが、常時聞こえてしまっている状態であり、集中力が削がれたり具合が悪くなることがある。

3.経歴

幼少期:いい子の形成

共働きの両親のもと、一人っ子として生まれ育つ。
母は面倒見は良かったものの、思い通りにならないとつねるなどの体罰をしたり、すぐに機嫌を損ねる人であった。母との関係を表す象徴的なエピソード としては、徒歩2分のコンビニエンスストアに行こうと誘われ「アニメが見たい」と断ると機嫌が悪くなっていき、それを察して「ついていく」と言えば「言うことをコロコロ変えるな!」と怒られ、とはいえついていかないと怒られるため後ろを無言でついていく…というものがある 。
父は優先事項が仕事、自分の趣味であり、子どもに一方的に自分の趣味や興味のあることを話すタイプだった。

遥香は小さい頃から祖父母宅に預けられることがよくあり、母から「いい子で過ごしなさい」というしつけや言い聞かせが多かった。遥香にとって母の言うことは絶対であったことから、しばらく呪縛のように続く「いい子でいる」「大人の言うことには従う」という習慣は、そこから確立していくこととなる。
遥香は大人の様子をよく観察し、求められている役割を持ち前の器用さでこなし、「いい子」としていろいろな大人から可愛がられていく。

学童期~中学校卒業:いい子の限界

小学校低学年の頃から、母に言われるがまま習字やプールなどの習い事に通う。母は思いつきで(おそらく自分が「そういうことをしたかった」という気持ちで)習い事を勧め、遥香は母の興味関心に合わせる形で、何も考えずにそれに従っていた。習い事の成果に対してのプレッシャーはなかったが、「男の子の方だったらよかったのに」と言われることが幼少期からあったことで、望まれる子にならなくてはというプレッシャーを遥香は抱いていた。

住まいは父の転勤などもあり、近隣の市町村に何度も引っ越しをしていたが、小学5年生からは大都市A市に落ち着く。その際に「都会なのだから塾に行ったりしなきゃいけない」と母に言われ、それを信じて遥香は塾に通い始める。

しかし小学6年生の時に、父がうつ病になって引きこもり始めたことで、「頑張っていい仕事につかなきゃと言われているけど、結局病んだらこうなるのか」と感じ、何かをやるモチベーションが下がる。プールの授業が嫌だったこともあり、中学2年生で遥香は不登校となる。
一方、病んでいる父を支えるために母はダブルワークを始める。
遥香の不登校は、母が忙しくて子どもに目を向ける余裕がなくなっていたこと、父は元々子どもに興味関心がないことや、自分の病状に振り回されていたことで、最初は家族に気づかれなかった。しかしやがて学校の出席日数で発覚し、遥香は児童精神科に通い始める。その後は児童精神科のデイに通いながら、適応教室に通った。
そうした暮らしの中、 母が倒れて入院するなど、家の基盤は徐々に崩れていく。

高校時代前半:医療を居場所とする

進路は学校や病院の勧めもあり、定時制高校を選択。父が会社の接待に使っていた借金が発覚したこともあり、高校1年生の冬に生活保護世帯となる。

高校生活の始まりは友人もでき、放課後にカラオケに行ったりプリクラを撮るなど、充実した学生生活を送っていた。
しかし2年次になると友人同士の仲間割れ、言い合いなどが始まり、人間関係が混沌としていく。遥香はトラブルに巻き込まれ、何をどう対応したらいいのか分からず、周囲の様子に日に日に神経を尖らすようになっていった。そして徐々に感情のコントロールができなくなり、学校を休み始める。

高校2年生の夏頃 にリスカ(リストカット)をするようになる。最初は中学校時代に通っていた児童精神科を受診したが、「入院施設のある病院に行った方がいい」と言われ、別の精神科を受診。安定剤系の薬をもらうが、そこからOD(オーバードーズ、薬の過剰摂取)もするようになる。
高校2年生の冬に初めて入院 。思春期ケア病棟で3カ月生活する。
入院生活は顔色をうかがわなくて済み、不安も少なく、大人に構ってもらえたため、遥香にとって居心地がよかった。それからは退院後 もデイケアに通うなど、医療を居場所とするようになる。

S市に引っ越すまで:行き詰った世界からの脱出

遥香が退院した頃、母親のメンタルはより不安定さを増していき、遥香は隣のT市にある祖母宅で生活するようになる。それで生活環境は安定したものの、遥香にとって司令塔であった母の存在が無くなったことで、不安が高まってリスカとODの頻度は増えていった。当時の母は 「他の世界にいっちゃった」「夢の世界にいた」状態だったと遥香は表現している。
また祖母宅でも、よく訪れる叔母からリスカやODを責め立てられることもあり、完全に安心して暮らせたわけではなかった。生活も荒んでおり、遥香はネットを中心とした友人たちとの交流で飲み会を繰り返していた。それらの様子を見た祖母は、当時「一緒に死ぬしかない」とまで考えたそうだ。

高校3年生の夏に両親が離婚。父に引き取られるも、父とどう過ごしていいか分からず、自分で希望し冬に再び入院する。リスカとODが酷かったため、この時は閉鎖病棟への入院となった。
入院期間は、作業療法に積極的に参加し、周囲の大人に(患者にもスタッフにも)可愛がられ、気持ちが安定していた。一方で、理解してくれると感じるスタッフが夜勤だった際には、寝ずに何度もナースステーションを訪れるなどの行動もあった。
退院前には、父と暮らすことへの不安が強くなり、高校の保健室の先生に公衆電話から電話をかけて何度も話を聞いてもらっていた。そして退院した後、その先生からスクールソーシャルワーカーにつながり、S市への引っ越しを提案された。

S市は今まで住んでいたところから距離が遠く、知り合いもいなくどんな場所かも分からなかったが、遥香は構ってくれる大人の言うことには従うべきという衝動にかられ、家族から離れてS市に移住。福祉分野の地域づくり系のNPO法人で支援を受ける暮らしとなる。年齢としてはちょうど高校卒業と同時の引っ越しであったが、単位が足りていなかったため、通信制高校へと編入する。

S市の生活:多様な世界に触れて自分を取り戻していく

S市に引っ越してきてからは、単身で生活保護を受けながら、遥香を支援するNPO法人が運営する下宿スタイルの住まいで暮らす。
遥香は自分のことを構ってくれる大人がいる生活をイメージしていたが、想像と違い放置されることが多く、戸惑うことになった。どうしたら構ってもらえるか模索し、いい子モードとメンタル不安定を行ったり来たりしながら、リスカやODの量はすぐには変わらなかった。

1年目は、求職者のためのインターンシップなどに参加しつつ、通信制高校に通い、過剰適応をして市役所の派遣のバイトなどもしたが、どれも頑張り続けることは難しかった。高校は行くためのきっかけを自分で掴めないことが多く、ほぼ単位を落とした。
少し自我を取り戻してきた母とは連絡を取り合う頻度が高く、自分の気持ちを代弁してくれる相手だと思っていたが、ズレや言葉にできない強い違和感があった。しかしその違和感を自分の気持ちとして受け止めることができずに、解消方法としてリスカやODを繰り返した。

2年目には、 支援者や同じような悩みを抱えた人とグループを組んで、どうやったら自立できるかを考え、日々のやることなどを決めるようになる。そこから徐々に学校に行けるようになり、学校で友達もでき始める。生活保護のワーカーにも応援され、生業扶助でヘルパーの資格 もとる。

3年目に高校を卒業。生活保護から抜けて、NPO法人で支援を受けながら働き始め、当事者活動にも本格的に参加するようになる。当事者活動では自分の気持ちや考えを話すことを求められる機会が多く、母や周りの大人の意見に従うことしかやってこなかった遥香は戸惑いを抱いたが、本来持っている小器用さや過剰適応を発揮して、自分の気持ちや考えを少しずつ持ち始める。リスカやODについても、活動を通じて自分がどうしてそれをしてしまうか自覚できるようになり、徐々にストレス発散として程よく使えるようになっていった。
同時期、ヘルパーの資格を活かし、重度心身障害の人の介護をするために、健康な(個を尊重する文化の)家庭に通い始める。その中でノンバーバル(非言語)コミュニケーションと、自分を尊重し可愛がってくれる大人と関わる機会を得る。
当事者活動、ノンバーバル、個を尊重する文化の家庭と、多様な価値観や人の在り方を知ることで、家族基準の価値観から遥香は徐々に抜けていくこととなった。

現在はリスカを一応卒業している状態であり、遥香は支援を受けていたNPO法人の職員として、介護や生活支援、相談支援などに携わり、安定した生活を掴み始めている。

4.生きづらさが蓄積した要因

・家庭(母)の価値観の影響が強く、自分なりの感じ方や考え方の形成が妨げられた。遥香は子どもの頃にいろいろな場所に預けられたり、学校や病院などで多くの大人と関わったが、それらで他の文化や価値観に触れても、母の価値観が絶対のままだった。今の社会では子育ての責任は家庭(とくに母親)という社会規範が強く、母親は必要以上にプレッシャーや負担を抱え、子育ての悩みや家庭内のトラブルを外に出せずに封じ込めてしまう。父親が協力的ではない場合にさらに母のストレスは増す。そして、封じ込められたストレスは必然的に最も弱い立場の子どもに向けられてしまう。家庭が閉鎖的であればあるほど、隠れたところで子どもには大きな力でそれらが向けられてしまい、人格の形成に影響を与えてしまうと言える。

・他者の言いなりになりやすい遥香の気質と、子どもをコントロールしようとする母とのマッチング。遥香は小器用で、求められる役割を果たすのが得意な性質をもっているため、それが自分の思い通りにさせたい母と負の相乗効果をもたらし、意思のない人形のようになってしまった。そしてそれは精神的負荷やダメージとなり、思春期以降に情緒のコントロールを狂わせていくことになった。

・ただし、上記のことは「母が悪い」という単純な問題ではない(被害者である本人にとっては「母が悪い」のが事実であり、「悪くない」と思う必要はないが、社会的責任を背負う大人はもっと社会的な背景を考える必要がある)。遥香の母は、アルコール依存の父、貧困など、家庭内に社会的課題が複数あり、その中で長女として家庭を支える役割を担わざるを得なかった 。つまり、子ども時代に必要なケアをされないまま大人になり、子どもを産み、ケアをする側になってしまったといえる。そのような負の連鎖がこれ以上起こらないようにするためには、必要な人にケアが行き届く社会づくりを考えていくべきだろう。

・学校は閉鎖的な同質的集団であるため、人間関係の距離が近く複雑になりやすい。周囲の顔色を伺うタイプにとっては、容易にキャパ超えする高負荷な環境である。人間関係の向き不向きは誰にでも存在し、本来は同年代と仲良くできるのは必須ではない。また、適度に距離を置いたり一人で過ごしたりすることも選択肢になるが、学校というコミュニティではそれが難しい。

5.生きのびる力につながった要素

・大人に可愛がられていた、構ってもらえた経験があり、困ったときに大人に相談することができた。遥香に人を選ぶ気難しさが存在せず、求められている役割(良い子)をこなすことが得意であり、過度に抑圧的なところに預けられることもない幸運が重なっていた。
※ただし、理解ある支援者とつながることができたから良かったが、しばらくの間は悪い大人にも平気で騙される状態にあったため、一概に生きのびる力とは言えない部分もある。

・つらさを目に見える行動(リスカ、OD、電話)で表現するタイプ、かつ、自主性を重んじる支援者に巡り会えた。結果的に、自分が困っていることを伝え、それを適切に拾って対応してもらうことができた。行動で表現できても意味を決めつけてコントロールしてくる大人と出会ってしまう、または、適切に対応できる支援者と出会えていても困っていることに気づいてもらえない、というミスマッチがなかった。

・S市の支援で、特定の影響力の大きい大人が存在せず、レパートリー豊かな出会いを経験できた。そのことで刷り込まれていた「正しさ」 が分からなくなり、視野や発想が広がって、物事を柔軟に受け止められるようになっていった(本人の表現では、「母が白と言えば白」「黒と言えば黒」しかなかった世界から、白も黒もグレーも自分で選べるという感覚に変わった)。レジリエンスが高まった、とも言えるだろう。
※レジリエンスとは…逆境や困難、強いストレスに直面したときに適応する精神力。ストレスや困難に対して、ポキリと折れてしまうのではなく、しなやかに曲がって変化したり回復していけるイメージ。

・家族(親族)に、遥香がS市へ引っ越す道を止めるだけのお金も力もなかった。「お金があれば親族として引き留めていただろう」と叔母は語っており、環境を大きく変えることができたのは家庭の脆弱性が功を奏したといえる。

6.母を着拒したときの話(本人の言葉)

(着拒…着信拒否。特定の相手からのメールや電話などを拒否設定にすること)

【とても悲しい不幸なできごとの話】

いきなり夜に電話が鳴った。朝早くに備えて、早く寝ようとしてた日だった。
母からの電話で、出るか悩んだ。数週間前に父方の祖父が亡くなっていて、そういう時には夜間や早朝に電話があるのだということを実感したばかりだったので、もし大切にしている祖母だったら…と思って、ベットを離れて電話に出た。

何かあった?と問いかけると、最悪の想定(祖母の死)とはかけ離れた母の不安や不満を聞かされた。

主に、私が叔母と仲良くしている ことについてだった(それは私が望んだことではなく、叔母からの攻撃を受けてしまう祖母を守るための手段だった)。母と叔母は昔は仲が良いと呼ばれるような状態にあったが、ここ何年か母と叔母の関係は悪化していた。それは、母と叔母それぞれの精神状態が健康ではないことや、元々境界を侵入し合いながらも、それが相手を思いやるために必要な行動としていた文化の問題だと思っている。

だからこそ私は、母には叔母と遊んだ話は伝えなかったのだけど、母からは「耳に入れるな」と言われた。でも今回、伝えたのは祖母だった。
だとすると、私には関係がないと思うことも伝えたが、母の口から出るのは、私にとって母は頼りない存在だと思ってるだろうということ、叔母が頼れるなら叔母に母になってもらえばということ、絶縁したいと思ってる叔母と私が仲良くすることで母が傷つくことを私が分かっていないということだった。

私は母が寂しいと感じてることは伝わったが、同時に私には関係がなく権利を踏みにじられてることがハッキリと自覚できた。今理不尽なことをされているのだ。
母と過ごすということは、「理不尽なことでも、母の言う通りにする・思い通りになる」ということだった。

けれど、母から離れて11年が経ち、自我ができ始め、ようやく理不尽だとその時に実感できるようになった。
母は昔も、父と母を比べたら父の方が私は好きだろうと拗ねて伝えてきたり、自分の傷つくことを私がしないように生活の中で学ばせてきていたと感じてることを伝えたが、母には私が伝えたことが届かず、自分のことを振り返りも向き合いもできない様子だった。
そんな母と話すと自分自身の力がどんどん削られていくのを感じた。
まるで自分の体が少しずつ無くなっていくような感覚で、過去の関係に引き戻されそうになっているようだった。私にできることは、母にそんなことをもう話したくないから電話を切ると伝えて、電話を切ることだった。

切ったと同時に、気持ちがすごく疲れて揺れ動かされていた。この、明らかに精神状態が健康ではない母にとって酷いことをした状態で、このままにしておくことで自殺されるのではないか?と頭に過ぎった。けれど、その事は私には関係がないことだと客観的には分かっていた。
そして、こんなことで傷つけられてしまう弱い自分、本当は安心をもたらしてくれるはずの親が母と子という立場を振りかざして全受容を求めてくる、自分を搾取してくる存在であることへの悲しみがあった。

自分にとって大切に感じてる肉親は祖母であること。
叔母も私に対して酷いことをしたことがあったが、謝ってきてくれる人であること。それに比べ母は結局のところ私を傷つけて、抑圧してきた存在でその事で私がどれだけ苦しんできたかを結局何も分かっていないのだと気づいた。

そうしたらとても苦しくなってしまって、私ができたのは寝てる同居人の背中で泣くことだけだった。同居人は少しした後に泣いてる私に気づいて、何が起きてるのかを確かめた。
同居人は気持ちの想像ができず、なぜその出来事でこんなに私が傷ついているかは分かってくれなかった。
そのため、私が今起きて受けた気持ちの変化を言語化することはでき、次第にとても悲しい不幸な出来事であったのだ。という理解が強くなっていった。
一通り聞いた同居人は①祖母の不幸ではなかったことを喜ぶこと②私が反論できたことは良かったこと③私の悲しみを理解できたこと、を伝えてくれた。

本当にとても悲しい不幸な出来事だった

一通り整理できたところで、自分の理解者にもこのことを伝えたい!という気持ちに駆られた。
その時、これまでだったら抱いていただろう伝えることへの罪悪感や、罪悪感を消すための打算的な思考(私はいつもこれくらい貢献してるから、これくらいの相談をしても良い等)は全く浮かばなかった。
ただただ単純に話を聞いてもらえるだろうと、傷つけられない関係の相手に、本当の意味で安心して信頼してるからの発信だった。そして、案の定当たり前に傷つけられず、自分のことを受け止めてもらえた 。そういう関係があるのだから、もう母との関係なんていいのだと心から思えた。

母は、私相手ではなく電話相談に電話して欲しかったし、周りの支援者頑張って!と思う。死んでくれた方が楽な気持ちもどこかであるけど、仕方のないことだし、私はずっとこんな風にされてきたら、そりゃあ愛着も歪むし、対等な人間関係なんか分からず生きづらいのも当然。
こんな風に病んで当たられると、当たり前にDVの被害者はパワーレスになるし、それは頑張れないのも当然。
私は言語化することはできるようになったし、安心する関係もやっとできたから依存に走らず済んだけど、それができないと依存しかできないし苦しいのも当然。

次の日、直接安心できる人たちと話した。
1人は、よく今日出てこれましたね。と言ったし、
もう一人は、攻撃される相手は避けるしかないし、着拒することに肯定してくれ、私は母を着拒した。