今の日本社会では「学校は行かなくてはならないもの」という風潮があり、不登校は一つの問題として扱われがちですが、その問題の本質は、一体どこにあるのでしょうか。
学校に行かない時期があった当事者4人に、当時のことを振り返ってもらいながら、子どもが育つために必要なものについて考えます。
登場人物
生きかたカエル
司会進行。プロフィールはこちら。
ぐりこ
きれいな空気と空が好き。考え事が止まらない。常に疲れている。
山尾まや(仮名)
言葉で考えるのが大好きな頭でっかち系ADHD。都会育ちの一人っ子。
榎きのか(仮名)
感覚に圧倒されて行動不能になりがち。食べたいものを食べるのが好き。
しば
音楽と生き物が好き。やるべきことを先延ばしにする傾向がある。
– 目次 –
- 【前編】それぞれの不登校ヒストリー
- 1.不登校プロフィール
- 2.「どうして学校に行かないの?」と言われた時のこと
- 3.大人との関わり(良かった点、悪かった点)
- 【後編】子どもが育つために必要なもの
- 4.子どもが追い込まれてしまわないためには
- 5.大人に伝えたいこと
- 結論
**前編の内容**
不登校経験者の4人に、学校に行っていない頃のことを話してもらいました。そして、当時どのような関わりをされたらよかった?という問いから、「当時はいろんなことが地獄すぎて、誰にどんな対応をされようが全てが無理だった」というぐりこの意見が出て…
4.子どもが追い込まれてしまわないためには
カエル そうなる(誰にどんな対応をされようが無理になるまで追い込まれる)前に、周りが何かできることってないの?自分がいい学齢期を送るために、学校のことに限らず、もっとこうだったらそこまで苦しまなくて済んだのにっていうのがあれば教えてほしい。
ぐりこ もうちょっとゆるめながら日々を送る感覚、程よく休んだりリフレッシュしたりみたいな感覚を覚えることができたら、よかったのかもしれないですけど…。私は高校行けなくなる前まではずっと、勉強とにかく頑張らなければでいっぱいで、学校帰ってきたら疲れてずっと寝ていて…だったから。趣味や没頭するものも何もなく、とりあえず毎日嫌々ながら学校行って帰って来てからも勉強し、それだけだったから。
カエル 例えば週3日でよければ、どうだったのかな?行く日を自分で決められる学校。それが当たり前だったらどう?
ぐりこ 今だったら、そういう環境を与えられたら、自分に合った形で行っただろうなと思います。でも当時その選択権を与えられたらどういう行動をしたかっていうのは、ちょっとわからない。
カエル そっか。でも、学校の最大の特徴が、全員が同じことをしなければならないっていう謎のルールじゃない。一人一人違うんだから、全員に同じ形で同じパフォーマンスを求めるのではなく、それぞれの形に合ったものを選べたらいいのにと思う。他の人は?
まや 私は道徳の授業で「先生これはおかしいと思います」とか言いにいって、怪訝な顔をされる子どもだったので。思ったことを正直に言うと良いことが起きないけど、私はとても正直なので言ってしまって、「空気読めよ」みたいなことになる。私はいじめられることはなかったけど、わいわいするのとか、序列とか、これが正しいとかこれがスタンダードとかいうのが、すごく難しかったんだとは思う。あとは先生が「それが正しい」と思い込んでるみたいなのに、すごく反発していたから。なんかもっと普通に喋れる場所だったらよかったのかもしれないけど…どうしたら学校がそういう場所になるのかは、具体的にはわからない。
カエル でも本当に、思ったことを正直に言っても聞いてくれる人がいてほしいというか、大人が聞いてくれって感じだよね。単純にね。
まや そうですね。
カエル 子どもには、思ってることを言う権利があるんだよ。どこでどうやって言うのがいいのか、あるいは言わない方がいいのか、自己選択できるようになるのが大人になることだけど、それはあくまで正直な自己表現をしていく中で学んでいくことだから。思っている内容自体に正しさを求めたり、良いとか悪いとかを判断するのは違う。
まや 私は、区への意見表明と社会参画を目的としたボランティア活動みたいなのに中学2年生から入っていて。そこは考えることが好きだけど外れてる子とか、不登校系の人とか発達特性ある人とか、いろいろな人がいて。その中で議論を交わしたりして、大人になれたことは学びとしてすごく大きかったなと思ってます。
カエル うんうん。他の人は?
きのか 小学校が教科担任制だったらいいなって思います。先生が固定していてずっと同じ大人としか関われないなんて、不自然じゃないですか。ある程度ローテーションにしてくれることで、いろんな大人がいるんだな、いろんな価値観あるんだな、っていうのが自然と見えるかなと思う。友達との関係性の中にも、いろんな大人の目が入って来る方が、私は生きやすかっただろうなと。複数の人が、入れ替わり立ち代わりじゃないけど、関わるような環境があったらいいなって。
カエル あと、先生以外のいろんな人間を入れてほしいよね。さっききのかが言っていた生き方のサンプルがほしいというのも、そうなったら叶うわけだし。しばは?
しば 似た話になるけど、いろんな人に会える場所が大事だと思います。地方だとなおさら学校以外の場所がなくて、学校行かなくなったら行き止まり、どん詰まりみたいになってしまうので。今の私みたいな引きこもりっぽい大人もいるし、子どももいるし…という場所があって、「居ていいんだな」みたいに思えれば。やっぱり、普段雑談できる関係じゃないと相談とかもしづらいじゃないですか。
カエル そうだよね。
カエル ぐりこときのかは家にも居場所がなかったという話だったけど、家族にはこうしてほしいとか、家族これ嫌だったわ、みたいなのはどう?
ぐりこ 私は、家自体がとても閉鎖的な空気をまとった場所で。私が学校に行かないと、疲れ切った専業主婦の母が昼間リビングのソファーでぐったり寝ているのと、ずっと同じ空間を共にすることになるので、より密室の息詰まった感じはありました。しかも私の場合、父親が公務員でそれなりに小奇麗なマンションに住んでいて、周りからは「良い家庭だね」みたいに言われて終わる。確かに父親もあからさまに暴力をふるうとかは無いけど、「俺が養ってやってるんだ」とかはあって、子どもが学校に行けなくなったら母に「お前の子育てが」っていうタイプなので。
カエル なるほど、いわゆるモラハラがデフォルトになっている家庭だね。きのかは?
きのか 状況はちょっと違うんですけど、プレッシャーの形はわりと近いかなという感じがします。
ぐりこ でもずっと、私はこんな恵まれた環境で大学も行かせてもらって、明らかにいじめられたわけでもないのに、どうしてこんなに希死念慮が強くて生きづらいんだろう…という後ろめたさがあって。自分だけで考えると、それは私に問題があるんだという結論になる。学校の先生と親のみでの環境で育つと、どう考えても視野が狭まるというか…。学校内も学校外も、いろんな要素がもっと身近にあった方がいいのは間違いないと思います。
カエル たとえば、ぐりこの家の近くにもう一つの家みたいなのがあって、どっちに帰ってもいいよとかだったらどう?家が3つぐらいあって、いろいろ帰るところが選べたら。行っても「迷惑かけるからやめなさい」とか言われない前提でね。
ぐりこ いつもじゃなくても、たまに行って一緒にご飯食べてくるとか、そのぐらいの距離感を自分で選べる場所があったらいいなって今は思います。
カエル なんか核心に段々近づいてきた。どうして学校に行かないの?は、いろんな大人がいないから。
まや 家も学校も密室になりやすいから、第三者評価をしづらい。私も自分の家について、お金という指標で「恵まれてるのに」って思ってたところはあって。父親がめっちゃ怒りまくるとかはおかしいとは思ったけど、それがどのレベルなのか、辛いと思っていいのかみたいなのは分からなかった。そういうのって、人に話して初めて気づくことが多い気がする。
生きかたカエルコメント
子どもの育ちに必要な要素の一つが「大人との関わり」です。
子どもが成長し大人になり自立をしていくためには、自分がどんな人間なのか受け入れ、どのように付き合ったらよいか身につけていく必要があります。それは一人でできることではなく、受容的な大人と関わりをもち、反応をもらうことや、自分が直接関わらなくても、大人同士や大人と子どもなどの多様な人間関係を観察することで確立していきます。また、多様な人と出会いいろいろな経験をすることによって、自分が何を好きか嫌いか十分に感じ取り、何がしたいかを発見し、気力や希望は育っていきます。
逆にそれらの機会が保障されないと、自分のことがわからず、自分とうまく付き合うことが難しくなります。つらい状況になったときになぜ苦しいかもわからないし、どうしたらいいかに気づくことも難しく、やりたいことも見つかりづらいでしょう。そして、立ち尽くし、じっとして、行き詰まってしまいます。
そういう意味で、子どもが育っていく環境として、今の学校だけでは限界があるのです。
5.大人に伝えたいこと
カエル そろそろ締めましょう。学校時代に学校というスタンダードに対して拒否反応を起こしそこから離脱をした身として、大人に何を伝えたいか。支援者だけではなく、子どもを見守るすべての大人に、これだけは言っておきたい、ということを教えてください。
ぐりこ 私は経験上、支援者への嫌悪感とかをすごく持ってきた一方で、結果的に自分が支援的立場として働いていた経験があって。その時も私は当事者性が強く残っているので、他の職員のちょっとした言動とか関わり方とかを見ているだけで、嫌だなとかグサグサくるとかはたくさんあった。でも、自分も事実支援者的な人間になっている以上、自覚のないうちに、関わっている若い高校生とか大学生くらいの子とかに、そのような関わりをしてしまっているのかも…
カエル そのような、っていうのはどのような?
ぐりこ 支援者の上から感、みたいな。私は、私の歩んできた道のりをそんなよく知ってもいない第三者に、理解者感や良い人感をすごい振りかざされて、頑張って行こうねみたいな関わりをされるのにキレていたので。確かに支援が必要という事実はあるけど、一人の人間として関わるそのバランスを、ちゃんと持っていたいなとはいつも思っていて。支援者であれ親であれ教員であれ、立場の違いとか、その時々で持っている役割とかは絶対的に発生するしそれが必要な場面というのがあると思うんです。でも、それを持ちつつも本当に対等な人間同士の関わりが、ちょっとでも生まれたら、救われる部分もあるなと経験から感じています。
カエル 対等な関わり、か。対等な関わりと上から目線は、確かに違いはあるよね。感覚的には。でも、何が違うかきちんと言葉にしようとすると難しい気もする。
まや これは支援者だからとかに限らず、他人ってそういうものだろって私は思うんですが、「(誰々は)こういうものだっていう風に結論や正解を永遠に確定しないっていう中で、関わり続けて考え続けてください」って感じかなと思いました。
カエル うんうん。じゃあ、きのかは?
きのか 全然浮かばない。同じですって感じ。本当にはあなたのことはわからないということを、「わからないよ」って突き放す意味じゃなくて、「わかったわかった」って簡単にはならないということを、理解しておいてほしいな。そして、だからこそ理解したいっていうのの、両方を持ち続けてほしいなって。目の前にいる人が人だよっていうことと、自分も人だよっていうことを忘れないでいてほしいなと思います。
カエル しばは?
しば 大体同じ感じです。あと、家族はどこかで話してきてもらって、家庭内のプレッシャーを下げるようにしてくれたら。
カエル なるほどね。家庭内のプレッシャーっていうのは、親が行かせようとするような圧力?
しば 圧力もそうだし、親の不安とか焦りとか。そういうのは子どもに移るというか、感じ取るので。私の母だと、親の会とか病院も行ってたんです。児童精神科に2か月に1回行ってたけど、私は行きたくないから。
カエル 親が行ってたのね。
しば 病院も不登校してて。
カエル 不登院だよ。
しば 母だけ話して帰って来るみたいな。でもそれはそれでよかったのかな。
カエル さっきのぐりこじゃないけど、学校に行かなかったら家にいるしかないから、家にいる時にも無言のプレッシャーとかいろいろ嫌なことあったらそれは大変だよね。今日はいないけど、そもそも家が本当にひどくて、学校に行けない理由は家にありますっていうパターンも山ほどあるし。
(※そのパターンを取り扱うと対談の収集がつかないため、今回はあえてあまり当てはまらないメンバーを選んでいます)
まや そうですね。
カエル ではこのあたりで、対談は終わりにしますか。皆さん、ありがとうございました。三者、いや四者四様で、面白かったです。
4人 ありがとうございました。
生きかたカエルコメント
生きづらさについてどのテーマを扱っても、具体的に起こっていることは違ったはずなのに、いつも同じようなところに行きつく気がします。例えば、対等な関わりや多様性が重要であるということなどです。
その中でも、今回のテーマにおいては強く「一人の人間として」というフレーズが出てきました。学校が子どもにとって一人の人間として扱われる場ではないという課題を、思い知らされた気持ちになりました。
学校という場では、想像以上に子どもは「生徒」や「児童」として教育の対象としてみられ、不登校になると今度は「不登校児童」とラベリングされ、対象化が強化されます。そうなると、ますます人格や個性が後回しにされることとなり、さらに苦しくなり、生きづらくなり、自分が何者かわからなくなります。 「どうして学校に行かないの?」という問いではなく、「一人の人間として私はこう感じています。あなたは何をどう感じていますか?」という発想で、学校や社会の仕組みを作っていく必要があると考えます。
結論
あと、その言い方は「学校に行くのが正しい」と責められているような、理解してもらえていないような感じがします。
不登校の子としてではなく、私という一人の人間として関わって、理解しようとし続けてほしいと思います。